閏十一月一日 欽宗、南壁を巡視。張叔夜・呉革の入城
- 欽宗は簡略な儀衛で泥濘の中を馬で城壁を巡り、士卒の食事を自ら味わうなど労いを尽くし、民は感泣したという。
- 南道総管張叔夜が城下で軍容を整え入城、延康殿学士・内外兵馬都総管に任じられた。叔夜は郭京の術を危険視し、金の陣が未整の隙に攻撃すべきと進言したが容れられなかった。呉革も合流し統制官となった。
- 京城四壁の防衛は総勢十万ほどだが、募兵の多くは戦意に乏しい貧民であった。京畿提刑秦元の保甲三万も実戦では脆く、金軍と対峙した末に潰走した。
- 樞密承旨王健配下の兵が誤って味方を奸細と疑い殺傷する騒動(竒兵の乱)が起きた。何㮚が尚書右僕射兼中書侍郎に任じられた。
二日 欽宗、西壁・北壁を巡視。各門への攻撃激化
- 欽宗は西壁・北壁を続けて巡視し、四日連続で雨雪の中を労いに努めた。皇后も宮嬪に綿の襟当てを作らせ将士に配った。
- 金軍は東水門・通津門・善利門に猛攻をかけ、城方は磨盤や纜網で矢石を防ぎ、夜襲で砲架を焼くなど応戦した。東道総管胡直孺は拱州で金軍に敗れ捕らえられ、金はこれを城下に晒して援軍の無力を誇示した。
四日 金軍、東水門一帯に布陣。孫傳の夜間警戒
- 金軍は東水門から陳州門一帯に陣を敷き、南壁への攻撃を強めた。劉延慶は九牛砲などを用いて雲梯を破壊するなど防戦に努めた。
- 孫傳は城上で夜を明かし守りを固めた。中書舎人孫覿は東壁提挙官の任を辞退する上奏文を提出し、自身の和議論の経緯(伏闕騒動批判、蔡京弾劾、三鎮割譲論など)を弁明した。
五日 呉革、出撃策を献ずるも容れられず
- 呉革は城外に布陣し金軍の接近を防ぎ東南への道を確保する積極策を繰り返し進言したが、朝廷の消極姿勢により実行されなかった。
六日 太学生丁特起の上書、善利門・通津門への猛攻
- 太学生丁特起は金軍攻撃の激化を受け、対金勝算と出兵の必要性を説く上書をしたが黙殺された。
- 善利門・通津門・宣化門(俗に京城を「臥牛」に見立てその急所とされた三門)への攻撃が特に激しく、姚友仲が円門などの防御施設を急造して対応した。
七日 統制官高師旦、戦死
- 城下での戦闘で統制官高師旦が戦死。姚友仲は南拐子城で自ら督戦し敵勢をやや押し返した。范宗尹は割地論を唱えた責を問われ罷免された。
八日 蔡京邸の火災、艮嶽の破却
- 蔡京の旧邸が火災に遭い、周囲の民家は延焼を免れたため、人々は快哉を叫んだ。
- 艮嶽(徽宗が築いた庭園)の石を砲石に転用する詔が下り、民が競って石を砕いた。
九日 護龍河の攻防、張叔夜の枢密院事就任
- 金軍は護龍河に橋を架けようとしたが、姚友仲が弩・砲で応戦し夜まで阻止。金軍は火梯・雲梯・撞竿などの攻城具を増強した。
- 張叔夜は僉書枢密院事に任じられ、孫傳とともに四壁守禦を統括することとなった。
十日 賭博解禁による資金調達、和議の使者派遣
- 民間の賭博を許可して房銭を免除するなど資金を確保する策が取られた。金は和議に応ずる姿勢を見せ、李処権・司馬朴が報謝使に任じられた。
十一日 全国動員令、司文政の処刑
- 河北一路に軍民の総動員を命じる詔が下された。教坊の楽人司文政が伏闕上書の内容が不敬とみなされ処刑された。世論の反発を受け、朝廷は上書内容を公示して処刑理由を説明した。
- 耿南仲は金使王芮とともに衛州に至ったが、住民に「金人と同行する者」として入城を拒まれ、相州へ向かった。「靖康小録」は耿南仲を、私怨で人事を左右し国事を顧みなかった佞臣として厳しく批判する。
十二日 攻城戦の激化、護龍河の氷結
- 城外での薪炭売買が許可され、護龍河の氷を割る作業も行われた。劉韐は守禦の不首尾により落職。金軍は望楼を築いて城内を偵察し、大型の攻城兵器を投入したが、城方も鈎竿や火矢で応戦し九牛弩で敵兵を貫くなどした。
十三日 大雪の中の再度の巡視
- 大雪が続く中、欽宗は再度四壁を巡視し将士を労った。酒食を金軍陣中にも贈るなど懐柔策も取られた。
十四日 護龍河の埋没、南壁の危機
- 雪が晴れ、欽宗は東水門などを視察。護龍河が氷結・埋没して防御が形骸化していたことが発覚し、担当の李擢は落職、田灝が代わった。
- 「宣和録」には、朝陽門での局地戦で衛士が奮戦するも援軍が続かず二人が戦死した逸話、皇帝が跣足で晴天を祈るなど労苦を尽くした様子、南壁の危険な楼(惟字・乃字楼)の攻防、金軍の金牌将劉安が砲撃で死んだ戦果などが記される。劉延慶は「大臣が勝利を誇るのは楽観に過ぎる」と危機感を述べた。