五日戊辰 呉敏、落職の上宮祠に
- 臣僚は、呉敏が太上皇の内禅を機に功を独占し、宰相就任後は驕り高ぶって辺防・将帥人事・兵糧補給を疎かにし、元祐の旧臣を抑圧する一方で蔡京一派を庇い続けたことを弾劾した。処分が落職・宮祠に留まったことへの不満から、より厳しい処罰を求める再度の上言もなされた。
呉敏、蔡攸との共謀を暴かれる
- 臣僚は、呉敏が本来は蔡攸の指図によって内禅の建白をしたに過ぎないにもかかわらず、これを自らの功と偽り、蔡京一族の処罰を妨げてきたことを、蔡京の子蔡絛から呉敏へ宛てた書簡(開封府が押収)を証拠として暴露した。
九月九日壬申 呉敏、涪州へ流罪
- 重ねての弾劾と皇帝自らの手詔により、呉敏は崇信軍節度副使として涪州安置に処された。手詔は、内禅の決断が太上皇自身の英断であり呉敏の功ではないこと、蔡攸との共謀の経緯を詳細に述べる。林泉野記・詩選は呉敏の経歴(文才に優れ蔡京・蔡攸に取り入って栄達したこと)を補足する。
蔡攸、萬安軍へさらに流罪
- 臣僚は、蔡攸の罪が父蔡京に劣らず、燕山の役での失態や驕奢淫逸が甚だしいとし、雷州への配流地では罰として軽すぎると訴えた。これにより蔡攸は萬安軍安置に処された。
十一日甲戌 吴革、太原へ使者として派遣
- 閤門宣賛舎人吴革が尼堪のもとへ赴き、金の背盟を厳しく詰問した。尼堪側は動揺を見せ、威勝軍方面への侵攻軍を一時召還したが、宣撫使折彦質は河南防備の強化と精鋭の代替派遣を求めたものの、朝廷は依然として和議に固執し、事態を打開できなかった。
十三日丙子 譚稹・王安中、さらに流罪
- 臣僚は、忻州・代州の失陥が譚稹の義勝軍招募策の失敗に、燕山の変が王安中の失策と隠蔽にそれぞれ起因すると重ねて指摘し、両者への処罰が軽すぎることを批判した。これにより譚稹は昭州、王安中は象州へそれぞれ安置となった。
- 遺史・幼老春秋は、王安中が文才に優れ蔡攸に取り入って栄達した経緯、象州配流後に詠んだ詩などを付記する。