陳東の伏闕上書
- 二月五日辛丑、太学生陳東は闕下に伏して上書し、李邦彦の罷免と李綱・种師道の再登用を求めた。上書では「任賢に貳せず去邪に疑わず」の理を説き、李綱を社稷の臣、李邦彦・白時中・張邦昌・趙野・王孝廸・蔡懋・李稅らを社稷の賊と断じた。
- 李綱の用兵における小さな失利を口実に罷免したことを批判し、邦彦らが変事に際して家族を先に逃がすなど保身に走ったこと、李綱がいなければ都は既に失われていたであろうことを訴えた。
- 三鎮割譲についても、太原・河北の要害を失えば国都を維持できないとし、祖宗が艱難の末に得た地を軽々に棄てるべきでないと強く主張。魏の楽羊、唐憲宗の淮西討伐の故事を引き、一時の敗戦で名将を退けるべきでないと説いた。
民衆の蜂起
- 上書の日、太学生数百人が宣徳門下に集まり、まもなく軍民数万が呼応して集結した。ちょうど金軍が城を攻めていたこともあり、群衆は登聞鼓を打ち壊すほどの騒ぎとなった。
- 内侍朱拱之が群衆に八つ裂きにされ、宰相李邦彦も罵倒され瓦礫を投げつけられて馬で逃げ込んだ。開封尹王時雍が鎮圧を試みたが、群衆は「李右丞・种宣撫を復せよ」と要求し続けた。
- 伝信録(李綱自身の記録)によれば、群衆は数千万人に達し、登聞鼓を叩き壊し、内侍二十余人を八つ裂きにするほどの激憤ぶりであった。李綱・种師道はやむなく召し出され、上に復命した上で守禦を再開、群衆にも退去を促してようやく事態は収拾した。
李綱・种師道の復職
- 群衆の圧力を受け、上は李綱を尚書右丞・京師四壁守禦使に復し、种師道も宣撫使に復した。李綱が城に登ると民衆は歓呼し「右丞よ、われらの主となれ」と声をかけた。
- 朱邦基靖康録によれば、老父たちは「鑾輿を出さず固守し我らを活かしたのは李右丞、進んで敵営に迫り剽掠を防いだのは种枢密、社稷を危うくし国人を棄てたのは李邦彦・李稅・蔡懋である」と語り、両名の復職を強く求めたという。
- 混乱の中、内侍が城上での防戦を妨げていたとの疑いから多数が殺害され、後に李綱の主導で三十余人が正式に処刑され、ようやく騒動は収まった。これにより「独脚皂旗」「紅灯籠」など内応の合図とみられていた不審な標識も、内侍による金軍への内通の証と判明した。
- 詔が下り、童貫・梁師成・譚稹・李邦彦ら奸臣の悪行を認めつつ、末端の小官吏への処分は控える旨が示され、宦官の特権(節度使・師傅号の授与など)は祖宗の旧制に戻された。
事件の評価
- 宣和録・靖康前録も同様の経緯を伝え、种師道・李綱の復職により士民は「手を額に加えて」喜び、両名は城の守りに戻った。この日の騒乱で、内侍勢力が長年にわたり政治を壟断してきた実態が白日の下にさらされ、朝廷内の力学は大きく転換した。