姚平仲の劫寨失敗
- 二月一日丁酉、姚平仲は金の陣営を夜襲したが失敗、楊可勝は捕らえられ斡里雅布(オリヤブ)に殺された。中興遺史によれば、大臣は概ね和議を主張していたが种師道は李綱と同じく反対し、上の意向はやや和議に傾いていた。姚平仲は速戦を焦り、術士楚天覚が占った吉日を用いて夜襲を計画したが、機密は数日前から都人に漏れ、開宝寺には「御前報捷」の大旗まで立てられる有様であった。
- 平仲・楊可勝は七千の兵で牟駝岡の敵陣を襲ったが、金軍は陣を空にして鉄鷂子(重装騎兵)で伏兵とし、宋軍は大敗。楊可勝は捕らえられ、朝廷の意向でないことを示す密奏の控えを懐から出して弁明したが、斡里雅布は怒って処刑した。
- 中興姓氏忠義録も同様の経緯を伝え、楊可勝が「これは臣の独断で、主上の意ではない」と最後まで訴えたことを記す。
- 靖康前録によれば、姚平仲配下の王通が五百の敢死隊で二寨を落としたが第三寨で金軍の反撃に遭い、大敗を喫した。
講和交渉の再開
- 二月二日戊戌、斡里雅布は劫寨事件について朝廷に問う書を送った。朝廷は宇文虚中を通じて釈明の返書を送り、姚平仲の独断であったこと、関係者を厳しく処罰したことを伝え、和議の継続を求めた。
- 宇文虚中は簽書枢密院事として斡里雅布軍前に赴き、あわせて李稅・沈晦・路允廸・秦檜・程瑀らが太原・河間・中山の交割に関する使者として派遣された。
- 李綱は入対しようとしたが果たせなかった。
李綱・种師道の罷免
- 二月三日己亥、大臣は李綱・种師道の出師敗績を理由に処分を求め、种師道は太乙宮使、李綱は行営使を罷免された。
- 傳信録(李綱自身の記録)によれば、正月二十七日の福寧殿での評定で用兵方針(河津を扼し糧道を断つ策)が決した後、二月六日を挙兵予定日としていたが、姚平仲が功を焦って一日夜に単独で夜襲を敢行し失敗。宰相李邦彦は「用兵は李綱と姚平仲が結託した独断」と主張し、李綱を尚書右丞・親征行営使から罷免、蔡𢡟(蔡懋)がこれに代わった。种師道も宣撫使を罷免された。
- 靖康遺録によれば、李邦彦は元来和議派で李綱の主戦論を疎んじており、この敗戦を機に李綱・种師道を退けた。蔡懋が行営司を継ぐと、守備の緩みが生じ、金軍は再び城に迫って矢石を放つなど、京師の民は動揺した。
鄭望之の珠玉交渉
- 鄭望之は禁中の珠玉・犀角・象牙などを軍前に運び、犒軍の金銀の不足分に充てる交渉を行った。太師耶律忠らと値付けを行い、総額百万緡相当と評価された。夜、劉都管が「あなた方の軍が攻めてきた(姚平仲の夜襲)」と騒ぎ、康王(人質として滞在中)は驚いたが、望之は「もし味方が勝てば我々を害することはない」と落ち着かせた。翌日、斡里雅布は康王・張邦昌らを問い詰めたが、邦昌は「朝廷の指示ではなく、勤王の諸軍が自発的に動いたもの」と釈明した。
李綱擁護の上書
- 二月四日、臣僚は李綱を旧職(右丞)に戻すよう上書。李綱の忠義と孤立無援の立場を訴え、罷免が忠臣を萎縮させることを憂慮した。
- 靖康前録によれば、正月二十五日以来、李邦彦らは李綱の主戦論を快く思わず、姚平仲の敗戦を機に積年の恨みを晴らすかのように処分を進めたとされる。
种師道の再登用を求める上書
- 御史中丞許翰は种師道の再登用を強く求める上書を行った。王翦・趙充国など老将を重用して功を挙げた古例を引き、老齢を理由に師道を退けることの誤りを説いた。また、金軍を一撃で挫けば中原は保てるが、この機を逃せば取り返しのつかない事態になると警告した。