童貫・蔡攸の入城と空城の実態(四月十七日〜)
- 四月十七日、童貫・蔡攸は軍容を整えて燕山府に入り、残された民を撫定した。飢えた民が香火を捧げて出迎え、「契丹が滅び金が去り、王師が入城して再び日の目を見た」と歓喜した。先に入城していた李嗣本の軍が金軍の来襲と誤認して混乱する一幕もあったが、郭薬師の説得で収まった。童貫・蔡攸は燕山府に十日滞在して撤収した。
- しかし実態は、金軍が約半年にわたり燕京に駐留する間に富豪の家財をことごとく略奪し、檀・順・景・薊の民も疲弊し、契丹の遺民も金の収奪を恐れて山谷に逃げ込み、市街は廃墟同然となっていた。宋が受け取ったのは、財も人もほとんど失われた「空城」に過ぎなかった。
- 『北征紀実』によれば、王黼が事を専断し、童貫・蔡攸に独断を許さず趙良嗣に交渉を委ねた結果、アグダから「中国の大将(劉延慶)は十万の兵を擁しながら一戦もせず潰走した、中国など恐れるに足りぬ、燕山は今や我が物だ」と侮られる始末であったという。金は当初の遼旧例の歳幣に加え、燕京六州の代税百万緡を得たうえ、営・平二州や雲中(西京)の割譲も拒み続け、宋はこれに反論できなかった。さらに金は絹三十万・絲綿・木綿・香料・犀角・玳瑁の食器なども過大な代価で要求し、趙良嗣がその中で私腹を肥やしていたとも評される。
金軍の撤収と燕京の荒廃
- 金は燕京滞在中の気候不順もあって疫病に苦しみ、周辺の郷兵に絶えず襲撃されたため、案内役の伊都を罵り「お前が勧めたこの地は四面楚歌だ」と憤慨したという。撤退に際して金は燕山の城壁・楼櫓を破壊し、金銀財物を根こそぎ奪い、遼の旧臣・儀仗・車馬とともに松亭関経由で自国へ引き揚げ、居庸関から鴛鴦泊を経て天祚帝の退路を断ちつつ、空城のみを宋に残した。趙良嗣も密かに「この状態は三年しか保てまい」と語ったと伝えられる。
- アグダは西還する途中、白水泊に至り、涿州・易州のみを境界とすべきとする尼堪の進言を退け、「大宋との盟約は違えられない、私の死後は汝らの判断に任せる」と改めて述べた。
御璽の押された地図の受領(四月十九日)
- 四月十九日、金は御押(皇帝の花押)を付した地図を宣撫司に送り、童貫・蔡攸に拝礼を求めた。馬拡は「本朝の御筆にこれまで拝礼を求めたことはない」と反論し、金側もこれを了承して拝礼は免除された。この間、糧秣運搬をめぐる小競り合いで女真人一人が殺害される事件があり、事後に補償で解決した。
童貫の復命上奏(四月二十二日)
- 四月二十二日、童貫は「復燕」の戦捷を誇る上奏文を奉った。政和八年(1118年)以来の金との通好交渉、耶律淳の簒奪と燕民の帰順の願い、宋軍の各地での勝利、郭薬師・易州守将らの帰順、涿易の攻略から燕京陥落までの経緯を、実際より誇張気味に記述し、周の玁狁討伐や漢の匈奴討伐にも勝る大功であると称えた。
- 宰相王黼はこれに応じ百官を率いて祝賀し、称賛の言葉を連ねた。ただし『秀水間居録』によれば、実際には蕭后の帰順申し出を拒否したのは金との約定を憚ったためであり、金軍が居庸関から侵入して「夾攻」した実態は、劉延慶の敗退により宋軍単独では燕城を落とせず金の力を頼らざるを得なかったことの言い換えに過ぎないと指摘される。金は劉延慶敗走後に空城を宋へ引き渡す代わりに莫大な歳幣を得て、以後の南侵の野心を強めたとも評される。この功により童貫は広陽郡王、蔡攸は枢密院、王黼は太傅・三省総管にそれぞれ昇進し、玉帯を賜るなど厚遇されたが、営・平・灤三州(劉仁恭の旧領)を回復し損ねた王黼の外交の粗雑さも批判されている。
大赦の詔(四月二十七日)
- 四月二十七日、河東・河北・燕山府・雲中路に対し、燕雲回復を祝う大赦の詔が発せられた。詔は、燕雲十六州が五代以来二百年契丹の手に落ちていた歴史を振り返り、澶淵の盟以来の和約を守りつつも民の窮乏を見て挙兵し、天祚帝の失政による混乱に乗じて燕民の帰順を得た経緯を述べ、征戍の労苦をねぎらい新附の民に恩恵を施すとした。
童貫の帰還と燕山府の統治体制(四月二十八日)
- 四月二十八日、童貫・蔡攸は帰還し、詹度が権帥として統治を代行した。散り散りになった民の招集を進める一方、松亭・古北・居庸の各関には楊可世・姚平仲や常勝軍が配置され、劉逸・楊可昇・任宗堯らがそれぞれ景州・檀州・薊州の知事に任じられた。詹度は童貫を見送る詩を贈り、「太平は談笑のうちに成る」と称えた。