三朝北盟會編政宣上帙 宣和五年 1123年

金使尼楚赫の入朝と誓書の調整(三月一日〜五日)

  • 三月五日、崇政殿での謁見の後、宰相王黼邸で誓書草案が検討された。西京の国境線(黄河を境とすべきかなど)や、西京攻略の労に報いる賞賜(緑&KR0552;二千栲栳)、両国の呼称(兄弟・叔姪・知友のいずれか)などが議論され、王黼は「敵国同士は知友の礼が適当」とした。上は尼楚赫の希望に応え特別に春の宴を催し、賞賜として銀帛二十万を提示、尼楚赫はなお増額を求めたが上は許さなかった。

上と使者の対話(三月五日)

  • 馬拡の自叙によれば、上は「金がなぜこれほど多くの歳幣と燕京の民の引き渡しを求めるのか」と問い、趙良嗣は「金兵は残虐で利のみを追う」と答えた。馬拡は「本朝の兵威が振るわなかったためだ」と率直に述べた。上は「金が既に燕を占拠した以上、禍根を絶つため歳幣百万緡を惜しまず与え、当面の変を解決するのだ。山後(西京方面)の返還が実現したのも卿らの功績だ」と労い、西京交渉に最も尽力したのは馬拡であると聞き、その夜、馬拡を武翼大夫・忠州刺史兼閤門宣賛舎人に特に任じた。

山後の防備をめぐる鄭居中との議論

  • 再度の使者派遣に先立ち、馬拡は枢密使の鄭居中と山後(雲中方面)の防備策を議論した。馬拡は、漢代に雲中・朔・武等の郡を築いて匈奴に備えた故事を引き、現地の土豪に自治を任せるのは危険であり、金の蹂躙で疲弊した現地の富豪はもはや頼りにならないと指摘した。三万の兵を雲中に駐屯させ、要害に分屯し、賢将(張孝純ら)に委ねることで三、五年で辺防が整うと提言し、鄭居中もこれに同意した。

誓書の文言をめぐる交渉(三月十八日)

  • 三月十八日、趙良嗣らが燕山に至ると、金は碩哈郎君・高慶裔を通じて誓書の字句(特定の五文字、「常年」の語、末尾の句)の削除・修正を求め、逃亡官吏・住民の引き渡しが不十分だとして国境通過を認めなかった。宋は御前で誓書を改訂し、盧益・馬拡が正使として再度金の陣営に赴いた。
  • 金の宮廷での謁見儀礼(跪拝・舞踏を伴う複雑な作法、対衣・金帯の下賜、漢人宰相・左企弓による献酒など)が詳細に記録されている。誓書の字句や逃亡者引き渡しをめぐる押し問答が続き、金側(烏舎・高慶裔)は「郭薬師・董龎児のような著名な帰順者だけでも引き渡せ」と迫ったが、馬拡は「彼らは契丹時代からの帰順者で今の話とは無関係」と突っぱねた。
  • 金は「戸口の引き渡しが済まねば燕京交割の日取りを決められない」と圧力をかけ、涿州・易州の宋軍撤退と巡辺を示唆した。良嗣は「西京西北方面の帰属、賞銀二十万の交付など、未解決の五項目がある」と抵抗し、交渉は難航した。

逃亡官吏・趙温訊の引き渡し(四月二日〜七日)

  • 四月二日、金の察勒瑪・楊天寿が趙良嗣とともに宣撫司へ赴き、未引き渡しの人員を求めた。宣撫司は交渉を早期に終わらせるため、燕京出身の官吏・趙温訊を金へ引き渡すことを決めた。趙温訊は「一身をもって両国の戦を防げるなら本望」と涙ながらに応じ、金へ送られた。金の重臣・尼堪はその縄を解いて赦し、温言で慰撫したという。
  • 四月七日、金は賞賜の銀絹の受領と燕山交割の日取りを再確認し、あわせて糧米十万石の借与を求める国書を送った。度量衡(秤の目盛り)をめぐる細かな駆け引きもあったが、宋側は朝廷が定めた基準を守ることを主張した。金主は「今後、天祚帝・蕭幹(古爾班)討伐のため軍を二方に展開する、糧米の輸送に不安を持たぬよう伝えてほしい」と述べ、燕京交割は十一日に行うと告げた。

誓書の締結(四月十一日)

  • 四月十一日、盧益・趙良嗣が金の使者・楊璞とともに誓書を携えて到着した。金の国書(天輔七年=1123年四月八日付)は、燕京・涿・易・檀・順・景・薊とその属県及び民戸の割譲、歳幣(銀二十万両・絹三十万疋)に加え燕京税利の一部(百万貫相当)の毎年支払い、緑&KR0552;二千栲栳の付加、国境の不可侵と逃亡者の相互不引き渡し禁止などを定めた誓約文を確定させた。「この約に背けば天地が咎め、社稷は傾く」との誓詞で締結された。
  • 馬拡の自叙によれば、アグダはこの時すでに病を得ており、宴席で左企弓ら旧遼の重臣が献酬する中、「宋との大事を成し遂げた使者たちの功績は大きい」と労い、四月十四日に燕山及び山後の交割を行うことを再確認した。

常勝軍の帰属問題と燕民の強制移住(四月十四日〜)

  • 四月十四日、宣撫司は統制官の姚平仲・康随を派遣して境界を画定させた。金は松亭・榆関以北の民戸の引き渡しを求め、その中に郭薬師率いる常勝軍八千余戸(もと遼東出身)も含めるよう要求した。宣撫司は常勝軍がすでに宋への功労者であることから引き渡しを拒み、宇文虚中の献策により「燕の他の民をもって代える」案を採用、金もこれを了承した。
  • この結果、燕山府管内で家産百五十貫以上の富裕層三万余戸が根こそぎ強制移住させられ、境内は大いに疲弊した。ただし涿州・易州の民は早くから宋に帰順していたため、この移住の対象を免れた。
  • 移住を嫌った燕人が金の重臣・尼堪に「燕の地は本来大宋のものではなく我らが取ったものだ、桑麻の実る要害の地を人に与えるべきではない」と説くと、尼堪はこれに同意しアグダに涿州・易州を境界とするよう進言したが、アグダは「大宋との海上以来の誓いを違えるわけにはいかない、私の死後は汝らの判断に任せる」と述べ、約定通りの交割を貫いた。宣撫司はさらに李嗣本に軍を率いさせ燕地に入らせた。