三朝北盟會編政宣上帙 宣和五年 1123年

金の強硬な要求と橋の焼却(二月一日)

  • 二月一日、金は趙良嗣を送る際、瀘溝河を渡らせた後に橋を焼き払い、宋への不信を露わにした。馬拡の自叙によれば、正月以来の交渉で金側(烏舎ら)は「割譲・和議は皇帝がすでに許した以上、信を違えられない」としつつ、宋の提示額(歳幣に加え銀絹十万〜二十万疋両)を「一県分にも満たない」として拒否した。良嗣は、営・平・灤三州はもはや議題にせず、燕京の官吏・富戸・工匠らの引き渡しも求めない代わりに、歳幣の上乗せで決着させたいとする意向を伝えた。
  • 金側は「もともとの約束では燕地の民は宋に、燕の客民(漢族以外)は金に帰属するはずだった。今回宋が自力で燕京を落とせず金が代わりに取った以上、その恩恵に対し不満を言うべきではない」と応酬し、常勝軍(郭薬師の部隊)も本来は金に帰属すべき燕北出身者だと主張した。最終的に金は「歳幣に加え年百万貫相当(綾錦・羅紬・木綿・香茶・薬材・果実などの現物)を追加せよ、一分でも値切れば交渉決裂」と最後通牒に近い要求を突きつけた。
  • 良嗣はやむなく京師へ持ち帰る形で交渉を中断し、雄州で朝廷の裁可を待った。この頃、遼の旧臣・左企弓が「一寸の山河も一寸の金なり、燕を捨てる議を聞くな」との詩をアグダに奉り、金側に態度硬化の動きがあったことも記録されている。

朝廷の裁可と代税額の決定(二月六日)

  • 二月六日、御前から金字牌で国書と御筆の指示が届き、代税銭百万貫と銀絹の支払いを認め、あわせて西京の割譲を改めて求めるよう命じられた。宋の返書は、これまでの交渉経緯を確認しつつ、西京管下の州県については「土地を広げる意図ではなく、天祚帝がなお出没する辺境の防備のため」と説明し、割譲を求める姿勢を示した。

西京の帰属をめぐる激論(二月九日〜)

  • 二月九日、趙良嗣は金の陣営で西京の割譲を強く求めた。金側(烏舎・尼堪ら)は当初「西京の土地は与えるが人民は金が留める」と主張し、良嗣は「土地を与えて民を与えないのでは片手落ちだ」と反論、双方の応酬が続いた。
  • この交渉中、馬拡(茆齋自叙)は良嗣に対し、御筆の指示通り西京問題を最後まで争うべきだと強く迫ったが、良嗣は「山後(西京方面)まで欲張れば山前(燕京方面)の合意も壊れかねない」と慎重で、両者は激しく対立した。馬拡は「山前と山後は表裏一体で、片方だけでは守れない、御筆の命に反して黙るわけにはいかない」と主張し、良嗣は「くれぐれも交渉を壊さないでくれ」と懸念を示した。
  • 最終的に金側は、西京(武・応・朔・蔚・奉聖・帰化・儒・媯等の州)とその地土・民戸を宋に与えることで合意し、その代償として「軍が西京を攻略した労に報いる賞設」を一度限り求めるに留めた。西京より西・北の山後方面の州県は割譲対象外とされた。

誓約の取り決めと国書の往復

  • 金は改めて国書を送り、燕京六州とその属県、西京諸州の割譲を認めつつ、歳幣(銀二十万両・絹三十万疋、遼の旧例)に加え、燕京の税利のうち一部(六分の一相当、銭百万貫換算)を年々の代税として支払うことを条件とした。宋側は現物換算での支払いに応じ、盟誓の草案(誓書)が取り交わされた。誓書は、両国の国境不可侵、盗賊・逃亡者の相互不容認、緊急時の相互通報などを定め、「この約に背けば天地の神明が咎める」との誓詞で結ばれた。
  • 燕京管内の実際の税収の内訳(三司の勘定によれば課程銭百二十万貫余、税物銭四百二十八万貫余、あわせて五百四十九万貫余)も記録されており、宋が支払うことになった百万貫がその一部に相当することが示されている。

王安中の燕山府宣撫使任命(二月十一日)

  • 二月十一日、尚書左丞の王安中が少保・靖難軍節度使・河北燕山府路宣撫使兼判燕山府に任じられ、詹度が燕山府安撫使、种師中が副都総管に任じられた。童貫・蔡攸による燕山交割が近づく中、王黼は自らの功を誇示するため県名の改称を進めた。蔡攸は現地に留まることを望まず、病を理由に辞任を願い出て、後任に河北出身で北方情勢に通じた王安中を推挙した。朝廷は内府の金玉器を惜しみなく燕山府に運び、遠来の使者への歓待ぶりを誇示した。

金使の再来訪と誓書の締結準備(二月二十八日)

  • 二月二十八日、金の国信使・尼楚赫(都統・知軍国事を称する重臣)、耶律都哷(諫議を称する)、計議使の察勒瑪らが誓書の草案を携え、西京攻略の労に対する軍への賞賜を求めて来訪した。金は「尼楚赫は国政に通じる大臣であり、契丹への旧例に倣った厚遇で迎えるべきだ」と要求し、盟約を長く保つため誓書の内容通りに締結することを求めた。両国関係を「兄弟」「叔姪」「知友」のいずれの形にするかも話題に上ったという。