三朝北盟會編政宣上帙 宣和五年 1123年

燕地税賦をめぐる交渉(正月一日〜五日)

  • 正月一日、金の使者李靖・王都哷らが燕地の税賦問題を協議するために来訪した。
  • 正月四日、崇政殿での謁見の後、王黼邸で協議が行われた。李靖は「金が自ら軍を用いて燕京を得て宋に献じたのだから税賦を求めるのは当然」と主張し、王黼は「もとの合意にない要求だ、朝廷内でも反対が強いが、上の意向で交好維持のため難儀ながら応じる」と述べつつ、実際の税額を銀絹で代納する形にできないか探った。

馬拡の建言(対金三策)

  • 馬拡(茆齋自叙)は、劉延慶の敗走により宋が燕京入城の好機を逃し、金が先に燕を占拠して宋を侮る形勢になったことを踏まえ、王黼に上策・中策・下策・無策の四段階の対応策を上申した。
  • 上策は、女真が山前山後の故地故民をすべて宋に返せば、宋の民をもってその地を守らせ、嵗賜を増やしてでも国境の要害を確保すること。中策は、営・平・灤三州を女真が保持するなら各々の占領地に応じて国境を定め、廣信以北に城塞・水濠を築いて防備を固めること。下策は、金の「奉聖州の約」通り燕京六州二十四県のみを得て契丹旧例の歳幣を払い、目先の利益に甘んじること。無策は、際限なく地と歳幣を求め続け、いたずらに関係を損なうことだとした。
  • 王黼はこの上申を「下策こそ朝廷の上策だ」と評し、実質的に下策の方針で交渉を進めさせた。

上の指示と使者派遣(正月五日)

  • 正月五日、李靖らの帰国に際し、上は「金の使者に契丹の言を信じぬよう伝え、税賦は本来応じ難いが交好のため折衷案で応じる、営・平・灤三州は大きくないのでこれも譲る」との意向を示した。また、前年分の歳幣についても支払いを認めた。
  • 趙良嗣・周武仲・馬拡が改めて金へ派遣され、燕地の税賦を銀絹で代納する数額を協議することとなった。宋の国書は、宋軍もまた涿州・易州方面から夾攻に参加し居庸関攻略の金軍と呼応したこと、燕京への進入は信義を守るため自制した旨を強調し、税賦の直接徴収には応じられないが代わりに銀絹の追加払いで解決したいとの意向を示した。

税賦交渉の難航(正月二十五日)

  • 正月二十五日、趙良嗣が金の陣営で交渉した。金側は当初の「税賦」の要求を「商税・塩税を含む課程全般」にまで拡大解釈し、燕地の税収を年六百万貫と主張、これに対する代納額として当初百万貫を求めた。宋側は御筆で示された上限(銀絹十万→二十万→綾二万を加えた二十二万相当)を段階的に提示したが折り合わず、金側は「これ以上は交渉打ち切りだ、旧来通り両属の民戸を返し、涿州・易州の兵を退かせよ、応じなければ国境を巡邏する」と強硬に迫った。
  • 良嗣は「両国が誠意を尽くして交渉してきたのに、今さら道理を欠くのではないか」と反論したが、金側は地図を示して古北口・松亭関などの帰属も併せて主張し、なお平行線をたどった。金は二月十日に国境巡視を行う予定を告げ、良嗣は交渉の継続を求めて雄州に留まる旨を伝え、アグダはこれを了承した。

金国書の到来(正月二十七日)

  • 正月二十七日、趙良嗣は雄州に戻り、金からの国書を朝廷に転送した。国書は、宋軍が実際には燕京攻略に失敗し金の力で陥落させた経緯を改めて強調し、劉延慶の敗退や蕭幹軍との交戦の詳細も把握していることを示しつつ、税賦の代納として銀絹百万貫相当を要求した。良嗣らは御筆の上限(銀五万両・絹五万疋、応じなければ十万まで、さらに西京を含めるかどうかで綾二万まで)を提示したが、これ以上は独断できないとして持ち帰った。
  • 金は、平・灤州の帰属は認めない方針を改めて確認し、燕京管内の州県からの代税の物品(絹・綿など)を今年十月に交割することや、榷場の設置、正旦・生辰の使者往来の取り決めなど、細かな盟約事項を列挙して回答を求めた。