三朝北盟會編政宣上帙 宣和四年 1122年

宋の再交渉方針(十二月二日〜三日)

  • 十二月二日、崇政殿で李靖らを送るにあたり、上(徽宗)は「金国の要求には概ね応じよ、営・平・灤三州も大きくないので許してよい」との方針を示した。
  • 十二月三日、趙良嗣・周武仲を金へ派遣し、契丹の旧例による銀絹の額を認めつつ、営・平・灤三州及び西京の帰属を改めて求める国書を託した。国書は、宋がこれまでの交渉経緯(女真からの再三の使者往来、燕京国妃・蕭氏の帰順申し出とその拒否、童貫の出兵と戦況)を詳細に述べ、燕京六州とその属県、係官の銭穀・財物、離散した漢民の帰属は宋に委ねられるべきだと主張し、営・平・灤三州と西京は宋が独自に回復すべき地であるとの立場を示した。

郭薬師の反撃(永清の戦い)

  • 蕭幹は延慶を破った勢いで安次・固安両県を再び陥落させ、永清県を包囲した。郭薬師は「敵は我らを侮り漢兵を軽視している」と見抜き、常勝軍を漢人の旗を掲げて偽装させ、油断した敵が突撃してきたところを弓弩の伏兵で迎え撃ち、数千級を斬る大勝を収めた。敵は燕城に逃げ帰り、城を堅く閉ざして出てこなくなった。

金軍の居庸関突破と蕭后の脱出(十二月五日)

  • 十二月五日、金軍が居庸関に到達すると、蕭后は蕭幹・達実林牙らとともに夜のうちに燕城を脱出した。『亡遼録』によれば、蕭后は「社稷のため親ら決戦に臨む」と将士に涙ながらに告げつつ、実際には脱出であった。松亭関に至ると、達実林牙は天祚帝のもとへ戻ろうとし、蕭幹は奚王府での自立を望み、両者は袂を分かった。達実林牙は蕭后を伴い陰山へ向かったが、後に天祚帝がこれを殺害した。

燕京の陥落(十二月六日)

  • 十二月六日、金軍が燕京に至ると、左企弓・曹勇義・劉彦宗らが門を開いて降伏し、アグダらは燕京に入城した。馬拡はこの経緯を目撃し、勝報を持って帰還した。
  • 馬拡の自叙によれば、アグダは「契丹の領土は既に九割を得た、燕京一処のみ宋のために三方から攻め立てて取らせようとしたのに、なぜ手間取るのか」と皮肉り、劉延慶の敗走を聞くと「そのような統率者に国家の大事を任せて処罰はあるのか」と問うた。馬拡は「敗軍の将は死罪、あるいは軍法に処されるべきだ」と応じた。
  • 居庸関で軍容を整えたアグダは、馬拡に「城内の契丹人に投降を呼びかけよ、ただし漢民は皆宋に属することとする」と述べ、燕京入城の先導を命じた。入城直前、アグダは「わが軍が入関したのに、そちらの軍が奪い取ろうとしていると聞いた、よい話ではない」と不快感を示したが、馬拡が誤解を解くと機嫌を直した。
  • 燕京では左企弓・于仲文・曹勇義・劉彦宗・伊遜らが開門して迎降した。アグダは馬拡に涿州の捕虜・胡徳章を返還させ、雄州の宣撫司へ帰らせた。『亡遼録』によれば、蕭后一行が去った後、燕京では抗戦か降伏かで議論が割れたが、統軍副使の蕭伊遜が城門を開いて金軍を迎え入れ、百官・僧道・父老が丹鳳門球場で投降し、アグダは万勝殿で降伏を受け入れたという。

劉延慶の処分(十二月十一日)

  • 十二月十一日、劉延慶は率府率に降格され筠州へ流された。『北征紀実』によれば、劉延慶は童貫に忌避されながらも節度使に累進した名将であったが、涿州から良鄉への進軍で一日わずか三十里という慎重すぎる行軍を続けて嘲笑され、瀘溝河で蕭幹軍と対峙するうちに補給路を脅かされ、恐慌に陥って撤退を決断、輜重を焼いて潰走した。瀘溝の陣営には莫大な軍資(銀絹)が蓄えられていたが、すべて燕軍の手に渡ったという。童貫・蔡攸は当初劉延慶を詰問できなかったが、上が「劉延慶が不戦のまま潰走し、雲中もいまだ回復できていない以上、厳罰なくして諸将を統率できない」と激怒し、投獄の上で審理の結果、極刑は免れたものの散官に落とされ筠州安置となった。
  • また、当初は郭薬師の燕京突入の報が誤って「燕山克復」の大捷として都に伝えられ、朝賀の準備まで進んでいたが、実際には撤退していたことが後に判明し、混乱を招いたことも記録されている。

趙良嗣の再交渉と金の強硬要求(十二月十五日)

  • 十二月十五日、趙良嗣・周武仲が金の陣営に至ったが、金は営・平・灤三州の割譲を拒否し、逆に燕京の税賦をも要求してきた。アグダは「昨年来の約束にもかかわらず宋軍は燕京城下に一兵も現れなかった、営・平・灤を強く求めるなら燕京の話も白紙に戻す」と強硬な姿勢を示した。
  • 交渉の末、金は改めて国書を送り、燕京六州とその属県、銀絹の契丹旧例踏襲は認めるものの、燕京の税賦は金が自ら攻略した対価として金が徴収すると主張し、営・平・灤三州は依然として許与の対象外とした。国書は、宋軍が実際には燕京攻略に失敗し金軍の力で陥落させた経緯を踏まえ、これ以上の要求は「信義を損なう」ものだとして拒絶する内容であった。