三朝北盟會編政宣上帙 宣和四年 1122年

郭薬師の奇襲策と燕京突入(十月二十三日〜二十四日)

  • 蕭幹の軍が十里外に布陣して進軍を阻んだため、宣撫司は「敵は少数、我は多数」として速やかな進撃を檄した。劉延慶は諸将を集めて協議し、郭薬師は「蕭幹が全軍で我らに対抗している今、燕京は手薄であり、軽騎で固安から瀘水を渡り安次を経て直接燕城を衝けば、内応する漢民の助けで容易に落とせる」と献策した。劉延慶は郭薬師の常勝軍千人を先導に、趙鶴寿・高世宣・楊可世・郭可弼に六千の兵を授け、夜半に渡河させた。
  • 十月二十四日払暁、郭薬師配下の甄五臣が常勝軍五千と郊外の民に紛れて迎春門から突入し、守衛を殺して開門した。宋軍は燕城の七門を制圧し、内外は騒然となった。しかし蕭后は宣和門に登り自ら弓矢を取って抗戦し、宋軍側では規律が緩み略奪・飲酒に走る者が続出した。
  • 蕭后は密かに蕭幹らに使者を送って援軍を要請し、蕭幹軍は夜を徹して城外から突入、内応の兵と合流して激しい市街戦となった。郭薬師は馬を失い、楊可世が追撃を防いで辛くも脱出した。宋軍は劣勢に転じ、三昼夜の飲まず食わずの戦闘の末、ついに支えきれず撤退を余儀なくされた。楊可世は毒矢を受けながらも戦い続け、高世宣・王奇ら多くの将が戦死し、選抜された精鋭六千のうち生還したのはわずか数百騎に過ぎなかった。契丹側は馬五千・甲四千を鹵獲した。郭薬師・楊可世らは辛くも安次県に逃れ、潰兵四百余人を収容して涿州へ入った。

瀘溝河での対峙と劉延慶の総崩れ(十月二十五日〜二十九日)

  • 十月二十五日、蕭幹は瀘溝河南岸で劉延慶の本隊と対峙し、郭薬師配下の兵が全滅し楊可世も降伏したとの偽情報を流し、劉延慶軍を動揺させた。
  • 十月二十八日、劉延慶は宣撫司に撤退の許可を求め、童貫・蔡攸は「情勢に応じて判断せよ、ただし軍を誤らせるな」との曖昧な返答をした。これを受け劉延慶は諸将にも告げぬまま陣中の輜重を焼き、夜陰に紛れて撤退を始めた。
  • 蕭幹は夜襲を装う策略を用い、捕虜にした漢兵二人にわざと偽情報(十万の援軍が来る、夜襲の準備がある)を聞かせて逃げ帰らせ、劉延慶を動揺させた。すでに燕城陥落と粮道護送の敗報も伝わっていたため、劉延慶は将士に「粮餉が続かず退却する」と告げ、曲奇のみが強く反対したが叱責されて退けられた。
  • 十月二十九日夜、瀘溝河北方で火の手が上がり、劉延慶・劉光世らは敵襲と誤認して陣営を焼き敗走した。五軍は入り乱れ、崖に転落する者も多数出て、軍需品を放棄しながら百里以上潰走した。敵はこれを追撃し、白溝河でも常勝軍と交戦し大敗した。熙寧・元豊以来蓄えた軍資はことごとく失われ、燕人はこの敗北を歌に作って嘲笑ったという。同時期、蕭幹は清城でも守将路宗迪を破り奪還した。

趙良嗣の再交渉と金の強硬姿勢(十一月一日〜)

  • 十一月一日、アグダは趙良嗣に燕京・薊・景・檀・順・涿・易の六州二十四県を許すとし、毎年の歳幣を遼と同額とする条件を示した。金の重臣・普結努は、宋が昨年使者を長期抑留し軍期を報せなかったことへの不満を述べ、金は独力で中京・西京を平定した労苦を強調し、宋の出兵が遅く消極的だったと非難した。
  • 交渉では西京の帰属が焦点となり、金側は「西京はすでに金が占領した以上、宋に返す義理はない、まず燕京の帰属を確定してから改めて話し合う」との姿勢を示した。良嗣は「もともとの合意では山前山後十七州が対象だったはず」と反論したが、金側は「郭薬師・劉延慶が既に燕京に迫っているので西京の話も持ち出したまでだ」と応じ、態度を硬化させた。
  • 金は平・灤州についても「燕京の管轄内」とする宋の主張を退け、また易州・涿州の宋軍がすでに侵出していることへの牽制の文書を突きつけるなど、随所で優位に立とうとした。良嗣は「信義を重んじるべきだ」と応酬しつつも、劣勢での交渉を強いられた。
  • 交渉の最後、金は燕京の妃(蕭后)が金への内応を求めてきていることを明かし、「宋と戦端を開かぬよう伝えよ」と告げて良嗣らを帰らせた。

史料(茆齋自叙による現地報告)

  • 馬拡の記録によれば、金の重臣・詳衮らとの協議で西京の帰属について金側は「西京はすでに平定し宋に返還してもよいが、燕京については戦況次第で判断する」との立場を示し、宋軍がすでに郭薬師・楊可世を燕城に突入させていたことを知ると態度をさらに硬化させた。金は使者の一人を人質同様に留め置こうとするなど威圧的な態度を見せ、良嗣は狼狽したが、馬拡が「自分が残る」と申し出て場を収めた。

金国書の到来と歳幣交渉(十一月二十一日〜二十五日)

  • 十一月二十一日、金の使者李靖・王都哷・察勒瑪らが毎年の銀絹の額を協議するため来訪した。
  • 十一月二十五日、崇政殿で謁見の後、王黼邸で協議が行われた。金側は燕京・西京・平灤州のすべてを条件に含めるよう求め、宋側(王黼)は「西京は別枠とし、燕京・平灤の三州について契丹の旧例通りの銀絹を払う」との妥協案を示した。金側の察勒瑪は「往来を重ねても合意に至らない」と苛立ちを見せ、最終的に燕京六州二十四県を軸とした合意を優先し、平灤等については別途協議とする方向でまとまりかけたが、決着は持ち越された。

蕭幹の反撃と金軍の燕京接近(十一月二十七日)

  • 十一月二十七日、遼の蕭幹(四軍大王)は再び攻勢に転じ、涿州の安次・固安両県を陥落させ、守将の胡徳章を捕虜とした。
  • 金軍は燕京への進撃を開始した。馬拡が金の陣営に留め置かれる中、アグダは居庸関へ、達蘭は古北口へと三路に分かれて進軍した。燕京の国妃(蕭后)は金に和議を求める使者を送ったが、アグダはこれを容れず進軍を続けた。
  • 童貫は密偵の宦官李(内侍)から燕京陥落と州県再喪失の実情を密奏され、上(徽宗)から「もはやそなたを信用できぬ」との手厳しい詔書を受け大いに恐れた。童貫はやむなく王瓌を金の陣営に送り、夾攻の約束履行を求めた。金は十二月一日に出発し、五日に居庸関を越え、六日に燕京城下に至る日程を示し、王瓌を先に帰らせた。