三朝北盟會編政宣上帙 宣和四年 1122年

蕭后の降表(九月二十七日)

  • 常勝軍・易州・涿州の相次ぐ帰順に衝撃を受けた蕭后は、蕃漢の百官を集めて去就を協議した。「金・宋いずれに頼るべきか」との問いに、群臣の意見は分かれたが、蕭后は両論を容れつつ、金へは蕭永ら、宋へは蕭容・韓昉を使者として遣わし、いずれにも臣従を称する上表を送った。
  • 宋への上表は、遼が唐末に燕雲十六州を得て以来の由緒と、天祚帝の失政による国難、耶律淳の急逝と自らの摂政について述べ、皇帝の武徳に帰順する意を表した。年号を「徳興元年」と称した。

易州の攻略(九月二十二日〜二十九日)

  • 劉光世は別将馮宣慶に精騎五百を率いさせ易州へ急行させ、高鳳・明賛らと合流して同地を確保した。童貫は楊可世・劉光世に劉延慶の節制下で共同して易州・涿州方面を平定するよう命じたが、楊可世と劉延慶の間には旧来の確執があり、参謀の宇文虚中・監軍の鄧珪の調停でようやく足並みを揃えた。
  • 九月二十九日、副都統の何灌が易州城外に到達すると、太師高鳳・少卿王悰らが軍民僧道数万人を率いて歓迎し、宋軍は入城して官民を撫定した。西路の劉光世も交戦の末、易州城内の趙秉淵が契丹の疲弊軍を討ち、王琮が城を挙げて降伏するに至り、涿州・易州の両州が平定された。

論功行賞と常勝軍の来歴

  • 朝廷は郭薬師を恩州観察使・知涿州軍州事に、張令徽・劉舜臣・甄五臣・趙鶴寿・龔詵・趙拱・韓璧らにもそれぞれ官職を授けた。燕京管内三十余処・郷兵五十余万が相次ぎ宋に呼応し、常勝軍八千・易州義兵五千は劉延慶の前軍に編入され、道案内役を務めた。
  • 常勝軍はもと「怨軍」と称し、女真との戦いで父兄を殺された遼人により編成された部隊であったが、実際には敵味方を状況に応じて変える性格の軍で、天祚帝がこれを除こうとした経緯もあった。郭薬師らはその首領を殺して宋に降ったもので、燕地随一の精鋭とされ、宋はこれを厚遇して後に二万、さらに五万규模まで拡張した。

燕京の改称と州県の再編(十月)

  • 十月一日、郭薬師が易州で副都統何灌に謁見し、宣撫司に出仕した。
  • 御筆により燕京は「燕山府」と改称された(燕京は古の幽州で、周の召公奭の封地に由来し、燕然山にちなむ)。十月八日、劉延慶らは雄州から新城を経て涿州・易州方面へ進軍した。
  • 十月九日、遼の使者蕭容・韓昉が雄州に至ったが、その上表が「納款称臣」に留まり「納土(領土献上)」を明記していないとして童貫・蔡攸は受理を拒み、追い返した。韓昉は「納款すなわち納土である。良き隣国を蹙め立てれば、後悔することになろう」と警告したが、童貫は蕭后の上表を朝廷に急報し、蕭容・韓昉を雄州に留め置いた。
  • 御筆により、涿・易など八州とその属県が新たな名称を与えられ、燕山府の管轄県十三、涿州四県、檀州二県、平州三県、易州三県、営州一県、順州一県、薊州三県などが定められ、景州は威塞、盧龍県は盧城、石城県は臨州と改称されるなど、大規模な行政再編が行われた。

蕭后表への朝賀と大赦(十月十三日)

  • 蕭后の上表が到着すると、上は紫宸殿で百官の祝賀を受けた。太宰王黼らは「全燕の地を回復した」ことを称える賀表を奉り、上はこれに応える詔を発した。
  • 朝廷は新たに回復した州県に大赦を布告し、契丹統治下での不当な課税・弊政をすべて廃止し、貧民への官粟による賑恤、拉致された人々の家族への返還、忠直の士で北朝の讒言により罪を得た者の名誉回復と登用など、広範な善政を約した。

劉延慶軍の進発と瀘溝河での衝突(十月十九日〜二十日)

  • 十月十九日、都統制の劉延慶・何灌・郭薬師らは雄州から新城県へ、劉光世・楊可世は安肅軍から易州へ入り涿州で合流する二方面進軍を開始した。淶水県では県令が自ら出迎えるなど歓迎を受け、劉延慶は諸道の兵と常勝軍・趙詡の兵をあわせ五十万に及ぶ大軍を率い、瀘溝河(盧溝河)に至った。ここで蕭幹・達実林牙率いる二万に満たない敵軍と対峙し、両軍は塹壕を掘って備え、夕刻まで一進一退の攻防となった。
  • 十月二十日、劉光世らは料石岡で再び蕭幹の軍と対峙し、夕刻に敵の攻撃を受けて交戦したが、決着はつかず双方兵を引いた。

史料(茆齋自叙による馬拡と趙良嗣の論争)

  • 八月、劉延慶が都統に任じられた際、幕府では「金軍を先に居庸関へ入れ燕京を取らせ、後に歳幣で贖う」のが安全との慎重論があったが、馬拡はこれに強く反対し、金軍を関内に入れれば後に必ず宋を軽んじる禍根になると論じ、速やかに自軍で燕京を攻略すべきだと主張した。
  • 趙良嗣が金への使者として派遣される際、馬拡は良嗣が携えた御筆の内容(宋軍が燕京を制圧済みなら金軍の入関は不要とする一方、未制圧なら金軍を燕城の北に、宋軍を南に進めて夾攻する)を知り、金がすでに宋の苦戦(种師道・楊可世の白溝での敗退、童貫の意気消沈)を見抜いていることを踏まえ、弱みを見せず毅然と対応すべきだと良嗣を強く諫めた。良嗣は「宋軍だけでは燕京を落とせない以上、金の力を借りるほかない」と反論し、両者は対立した。馬拡はやむなく密かに上申し、女真を関内に入れず自ら燕京攻略を主導すべきだと訴えた。