三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興二十四年 1154年
五月
七月
- 二日癸丑、張俊が薨じた。「中興遺史」によれば享年六十九、病により自宅で没した。高宗は深く悼み三日間朝を廃し、棺・喪服・一品の礼服などを賜って循王に追封した。楊存中・田師中・趙密ら多くの将が張俊の門下から輩出したことが記される。
- 十四日乙丑、高宗が張俊邸に行幸して弔問し、慟哭した。
- 八月、勅命により張俊は常州無錫県に葬られ、内侍省の張去為が護喪を務めた。
- 「林泉野記」を引いた略伝によれば、張俊、字は英伯、泰州の人。若くして弓箭手として従軍し、南蛮討伐や西夏攻めで功を挙げた。宣和年間には京東・河北の群盗討伐で数々の武功を重ねた。靖康年間には种師中の下で太原攻防に加わり、种師中の戦死後は包囲を突破して生還した。
- 高宗(当時康王)に見出されて重用され、李煜・杜用ら反乱勢力の討伐、苗劉の変での高宗復辟への貢献などで昇進を重ねた。建炎四年の金軍南侵時には明州で防戦し、烏珠軍を撃退したが、再度の来襲を恐れて撤退し、金は空になった明州を屠ったという。
- 紹興初年、李成配下の馬進を岳飛の計により玉隆観で破り、その後も各地で反乱軍・金軍との交戦を重ねた。降兵五万を、反乱を恐れて夜のうちに殺害したという酷薄な逸話も記される。
- 紹興六年以降、盱眙の防備を固め、劉猊率いる偽斉軍を撃破するなど軍功を重ね、少師・河南招討使・済国公に至った。紹興十年の金の敗盟時には順昌の劉錡を救援すべきところを出兵せず、烏珠が退いてからようやく兵を動かした。柘皋の戦いでは楊沂中の敗勢を王徳が救い、大きな戦果を挙げた。
- 張俊の軍は精強で「鉄山軍」と称されたが、晩年は権勢を恃み、秦檜と結んで和議を推進し、劉錡・岳飛を陥れる讒言をたびたび行った。秦檜との密約により、自ら兵権返上を申し出て諸将の兵権解体を主導したとされる。
- 紹興十二年、朝廷に戻り田師中を鄂州(岳飛旧軍)の統率に推挙。紹興二十一年、高宗が張俊邸に行幸して労い太師を授けた。紹興二十四年、六十九歳で薨じ、循王に追封され常州無錫県に葬られた。諡は忠烈。配下の楊存中・田師中・王徳・趙密らも皆三公・節鉞に至り、多くの幕僚が顕職を得たことが付記される。
十月
- 沈虚中が賀正旦国信使、張掄が副使として金へ派遣された。
十二月