三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興二十一年 八月四日辛未 1151年

韓世忠伝(続き・孫覿撰墓誌ほか)

  • 孫覿の撰した墓誌によれば、建炎三年冬、金軍数万が長江を渡ろうとした際、韓世忠は寡兵ながら焦山・金山付近に舟師を配し、長い鉄鉤で金軍の船を引き寄せて捕獲する戦術で数百艘を撃破、金軍を長江以北に封じ込めた。金軍が新たに開削した水路(後の「新開河」)から辛くも脱出した後も、韓世忠は追撃を控えて捕虜を丁重に扱い、婦女らの身元を調べて故郷へ帰す仁政を敷いたとされ、この「揚子江の一戦」の威名によって、以後十余年、金は容易に江を渡れなくなったと評される。
  • 韓世忠、字は良臣、綏徳の人。若くして武勇に優れ、貧しい暮らしの中でも出陣のたびに敵将の首級を挙げて借財を返済していたという逸話、統制官党万が銀州で不意を突かれた際、単身敵陣に斬り込んで危機を救った逸話、金の貴人(駙馬郎君烏頁)を討ち取りながら童貫に功を隠された逸話が記される。
  • 方臘の乱鎮圧、河朔・山東の群盗討伐、金軍の太原包囲時の反乱軍(張師正配下勝捷軍)の鎮撫、靖康の変後の高宗擁立への随従など、数々の功績が改めて語られる。
  • 建炎四年の金山の戦いでの活躍により検校少保・節度使に任じられた制詞には「屯兵要害邀撃其帰、大振軍聲、殺傷過当、強隣震慴」の語があり、天下に伝誦されたという。
  • 精鋭部隊「背嵬軍」を組織し、大儀鎮の戦いで金の貝勒托卜嘉を撃破した様子、自ら考案した「克敵弓」で騎馬武者を次々に射倒した武勇、劉豫配下の軍との交戦、金の講和使節との折衝など、続く功績が記される。
  • 太上皇(徽宗)の梓宮・皇太后の帰還を実現した和議成立後、韓世忠は枢密使に任じられたが、程なく辞任を願い出て、太傅・鎮南武安寧国軍節度使・醴泉観使・咸安郡王となり、以後は門を閉ざして客を絶ち、兵事を語らず、驢馬に乗って西湖に遊ぶ隠棲の日々を送った。紹興二十一年八月四日に薨じた。
  • 著者は、韓世忠が終始変わらぬ忠義を貫き、岳飛や范瓊が跋扈の罪で死を賜ったのとは対照的に、功名と富貴を全うして一品の位を保った稀有な例であると称賛する。軍を厳格に統率しつつ恩情も厚く、士卒と苦楽を共にしたため、士は喜んでその麾下で戦ったという。皇太后が行幸の途上、百官の中から「韓某はどれか」と尋ねた逸話、高宗の親筆の詔勅を子孫が家宝として代々守り伝えたことなども記される。病篤い際、見舞う将吏に「私は三朝に仕え、大小百余戦、白刃を冒し流矢に当たっても退いたことはない。この身に残る傷を見よ。天の霊験によって命を全うし、家の寝床で死ねるのだ。諸君はなお私の死を哀しむのか」と語ったという臨終の逸話が印象的に記される。
  • 「遺史」からも同様の臨終の逸話が引かれ、高宗が太医を遣わして見舞わせ、死去の報に朝を廃して弔意を示し、道義郡王を追贈、親族九人に官を授けたことが記される。韓世忠の出自や「潑韓五」と呼ばれた若き日の逸話(人相見に「三公となる相」と言われて怒って殴打した話など)も付される。
  • 「林泉野記」からは、韓世忠が張俊らと共に各地の盗賊を平定した経歴、苗劉の変での高宗復辟への貢献(乱の首謀者苗傅・劉正彦の追討と捕縛)、建炎年間の金軍との攻防、紹興年間の湖南・建州の反乱鎮圧、劉光世との軍務を巡る確執、大儀鎮の戦いなどの武功が改めて時系列でまとめられる。
  • 紹興九年、秦檜の和議に反対し、金の使者を待ち伏せて和議を破ろうと図ったが、部下の密告により露見し、秦檜の恨みを深めた経緯も記される。紹興十一年、金の再侵攻に応戦した後、枢密使として兵権を解かれ、私財(銭百万緡・米九十万石、および鎮江・淮東の諸倉庫の物資)を朝廷に献上した。以後、太傅・醴泉観使、潭国公、咸安郡王、鎮南武安寧国軍節度使を歴任し、紹興二十一年、六十三歳で薨じた。太師を追贈され、蘄王に追封された。配下の諸将・幕僚も多くが高位に上ったことが付記される。