三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十九年 1149年

五月

  • 金が使者を派遣し、皇帝の誕生日を祝賀した。

九月

  • 湯鵬挙が賀正旦国信使、張把が賀生辰国信使として金へ派遣された。

十二月

  • 董先が鄂州駐劄御前左軍統制となった。董先はもと岳飛配下の背嵬軍統制であったが、岳飛の死後は歩軍司の統制となり、上司の趙密と不和であったため各所を転々とした末、田師中の推挙で左軍統制となった。
  • 金が使者を派遣し、正旦を祝賀した。
  • 金の完顔亶(熙宗)が岐王完顔亮に弑された。「神麓記」を引いた詳しい記述によれば、皇統九年四月、天変地異が相次ぎ不吉の兆しとされる中、熙宗は猜疑心を強めて側近を次々に手ずから殺害するようになった。翰林学士承旨張鈞を赦文の文言を理由に虐殺したのを皮切りに、皇族・重臣を次々に誅殺し、皇后や妃嬪までも死に追いやったという。
  • 駙馬都尉唐古弁らは、完顔亮とともに謀り、熟睡中の熙宗を襲って弑逆した。護衛将軍呼敦という者は当初この謀に加わっていなかったが、たまたま現場に居合わせ、逆にこれを助けて熙宗にとどめを刺したとされる。翌朝、完顔亮は「先帝の宣旨」と偽って重臣らを召し出し、丞相曹国王阿布薩らを絞殺した上で即位し、「天徳」と改元した。
  • 完顔亮の即位に際する詔(大赦の詔)も引かれ、先帝(完顔亶)の「昏虐失道」を理由に廃位し、宗族・大臣の推戴により自らが即位したとする建前が記される。