三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十七年 1147年

三月

  • 四日丁卯、牛臯が卒した。前日、都統田師中が諸将を集めて宴を開いた際、統制官牛臯は毒を盛られたことを悟り、身辺の者や家族に後事を託し、翌日死去した。表向きは病死とされたが、実は毒殺であったとの噂が広まり、秦檜が田師中に命じて毒殺させたとの見方もあり、人々は嘆き惜しんだ。

五月

  • 金が使者を派遣し、皇帝の誕生日を祝賀した。

九月

  • 一日壬戌朔、沈該が賀生辰国信使、詹大方が賀正旦国信使として金へ派遣された。
  • 二日癸亥、趙鼎が吉陽軍で卒した。秦檜は朝命を偽り、吉陽軍に趙鼎の生死を月ごとに尚書省へ報告させていた。趙鼎は「秦檜は私を必ず死なせようとしている。私が死ななければ、いずれ一族もろとも誅殺されるだろう。私が死ねばお前たちは無事だ」と子に後事を託し、絶食して死んだ。享年六十三。世人はこれを聞いて涙したという。
  • 「林泉野記」を引いた略伝では、趙鼎、字は元鎮、解州の人。建炎年間から侍御史・中丞を歴任し、金軍南侵時には航海による避難策を主張、その後宰相として韓世忠・劉光世・張俊を督励して淮東で金軍を撃退するなど功績を重ねた。学問を重んじ清廉な人材を登用し、賢相と称された治績が詳述される。紹興八年、和議を巡って秦檜と対立し、以後たびたび左遷を重ね、最終的に潮州、さらに吉陽軍へ流された経緯が記される。秦檜は趙鼎の死後もその子を陥れようとしたが、秦檜の死によって難を逃れ、紹興二十六年に趙鼎の官職が追復された。
  • 「秀水間居録」(朱勝非の記録)からは、趙鼎に批判的な視点も併せて引かれる。趙鼎が宰相として党派を組み、酷薄な人物も含めて自派を厚遇したこと、宰相在任中に邸宅を華美に改築し香や宴席に多額の費用を投じたこと、都督府の公金や賞賜庫の銭を私用に流用したとされる弾劾内容などが記され、賛否両論があったことがうかがえる。