左傳紀事本末楚、小国を伐ち滅ぼす(成王の弑逆を付す)(楚伐滅小國(成王之/弑附))
楚が漢水の東の小国を次々に討ち滅ぼしていく過程を、桓公二年(前710年)から襄公二十五年(前548年)まで集めた篇。成王が太子商臣に弑された一段を併せる。武王は隨を侵して季梁の「民は神の主」の説に阻まれ、後に速杞で隨を破った。鄧・權・絞・羅・巴との戦いを経て、文王は蔡侯を捕らえ、息媯のために息を滅ぼした。弦・黄・夔・江・六・蓼・庸・舒蓼・舒庸・舒鳩が相次いで滅び、多くは大国を頼んで備えを設けなかったことが滅亡の理由とされる。文公元年(前626年)、蜂の目と豺の声と評された商臣が宮中の甲兵で成王を囲み、王は熊の掌を請うて許されず縊れた。
年表(30件)
- 桓公二年前710年蔡侯と鄭伯が鄧で会し、初めて楚を懼れる
- 桓公六年前706年楚が隨を侵し、季梁が「民は神の主」と説いて隨侯が政を修める
- 桓公八年前704年少師の言に従った隨が速杞で大敗し、秋に楚と和睦する
- 桓公九年前703年鄾人が巴の行人を殺し、鬭廉が巴の師と挟撃して鄧の師を破る
- 桓公十一年前701年鬭廉が蒲騷で鄖の師を襲い破り、貳と軫と盟う
- 桓公十二年前700年薪取りで絞を誘い、伏兵で大敗させて城下の盟を結ぶ
- 桓公十三年前699年屈瑕が羅を侮って備えず大敗し、荒谷で縊れる
- 莊公四年前690年武王が心の揺らぎを覚えて出師し、樠木の下で卒する
- 莊公六年前688年鄧侯が三甥の諫めを退け、後に楚に滅ぼされる端を作る
- 莊公十年前684年息侯の謀によって楚が莘で蔡を破り、蔡侯獻舞を連れ帰る
- 莊公十四年前680年楚が息を滅ぼして息媯を連れ帰り、そのまま蔡に入る
- 莊公十八年前676年閻敖の一族の乱に乗じて巴人が楚を討つ
- 莊公十九年前675年津で敗れた文王を鬻拳が入れず、王の没後に鬻拳も殉ずる
- 僖公五年前655年弦子が齊と睦む諸国を頼んで備えず、楚に滅ぼされる
- 僖公十二年前648年黄が九百里の遠さを恃んで貢を供せず、楚に滅ぼされる
- 僖公二十年前640年隨が漢東を率いて叛き、力を量らずして討たれ和睦する
- 僖公二十二年前638年泓で宋を破り、鄭で男女の別なき饗を受けて覇を遂げぬと見られる
- 僖公二十三年前637年成得臣が陳を討って焦と夷を取り、子文に令尹とされる
- 僖公二十五年前635年秦が偽の盟で商密を降し、申公子儀と息公子邊を捕らえる
- 僖公二十六年前634年祝融と鬻熊を祀らぬ夔を滅ぼし、夔子を連れ帰る
- 文公元年前626年商臣が宮中の甲兵で成王を囲み、王が縊れて穆王が立つ
- 文公三年前624年楚が江を囲み、晉と王の師が方城を攻めて江を救う
- 文公四年前623年楚人が江を滅ぼす
- 文公五年前622年六と蓼が滅び、臧文仲が臯陶と庭堅の祀の絶えたことを哀しむ
- 文公十六年前611年大飢饉に蔿賈の策で師を出し、驕らせた庸を滅ぼす
- 宣公八年前601年諸々の舒の叛によって舒蓼を滅ぼし、呉・越と盟う
- 成公九年前582年莒が城の粗末なのを恃んで備えず、十二日で三つの都を失う
- 成公十七年前574年舒庸が呉を恃んで備えず、公子槖師に襲われて滅ぶ
- 襄公二十四年前549年舒鳩が叛意を否んで盟を請い、薳子の言で楚が師を引き上げる
- 襄公二十五年前548年子疆の誘いの策で呉の師を大敗させ、舒鳩を滅ぼす
桓公二年(前710年)
- 蔡侯と鄭伯が鄧で会した。初めて楚を懼れたのである。
桓公六年(前706年)
- 楚の武王が隨を侵し、薳章に和睦を求めさせ、瑕に軍して待った。隨人は少師に和睦の交渉をさせた。
- 鬭伯比が楚子に言った。「我らが漢水の東で志を得られぬのは、我らがそうさせているのです。我らが三軍を張り甲兵を着けて武で臨めば、彼らは懼れて協力して我らを謀る。だから離間しにくい。漢東の国では隨が大きく、隨が驕れば必ず小国を棄てる。小国が離れるのは楚の利です。少師は驕り者です。軍を弱く見せて驕らせることを請う」。熊率且比は「季梁がいる。何の益があるか」と言った。鬭伯比は「後の図りごとのためだ。少師はその君の信を得ている」と言った。王は軍を見苦しく整えて少師を迎えた。
- 少師は帰って楚の師を追うことを請うた。隨侯が許そうとすると、季梁が止めた。「天はいま楚に授けています。楚の弱さは我らを誘うものです。君は何を急がれるのか。臣は聞いております、小が大に敵し得るのは、小に道があり大が淫らなときだと。いわゆる道とは、民に忠であり神に信であることです。上が民を利することを思うのが忠、祝史の言葉が正しいのが信です。いま民は飢え、君は欲を遂げ、祝史は偽って挙げて祭る。臣はそれでよいとは思いません」。
- 公が「私の犠牲は肥え、粢盛は豊かに備わっている。なぜ信でないのか」と言うと、こう答えた。
- 「そもそも民は神の主です。それゆえ聖王はまず民を成し遂げてから神に力を致しました。だから犠牲を捧げて『博く大きく肥えている』と告げるのは、民の力があまねく保たれていることをいい、その家畜が大きく蕃え、疥や虫の病なく、みな備わり肥えていることをいうのです。盛を捧げて『潔き粢、豊かなる盛』と告げるのは、三時の農事が害されず民が和して年が豊かなことをいうのです。酒を捧げて『嘉き穀、旨き酒』と告げるのは、上下がみな嘉い徳を持って違う心のないことをいうのです。いわゆる馨しい香りとは、讒佞のないことです。だから三時に務め、五教を修め、九族に親しんで、その禋祀を致す。そこで民は和し、神は福を降す。だから動けば成る。いま民はそれぞれ心を持ち、鬼神には主がない。君だけが供物を豊かにしても、何の福がありましょう。君はしばらく政を修め兄弟の国と親しまれよ。難を免れることもありましょう」。
- 隨侯は懼れて政を修め、楚はあえて討たなかった。
桓公八年(前704年)
- 隨の少師が寵を得た。楚の鬭伯比は「よろしい。仇に隙がある。逃してはならぬ」と言った。
- 夏、楚子が沈鹿で諸侯を合わせた。黄と隨は会しなかった。薳章に黄を咎めさせ、楚子は隨を討って漢水と淮水の間に軍した。
- 季梁が下手に出ることを請うたが許されなかった。戦ってから、というのは我らを怒らせて敵を怠らせるためであった。少師は隨侯に「必ず速やかに戦われよ。でなければ楚の師を取り逃がす」と言った。
- 隨侯が防ぎ、楚の師を望んだ。季梁は「楚人は左を上とします。君は必ず左に当たられよ。王と出会ってはなりません。その右を攻めなさい。右には良い者がおらず必ず敗れる。片方が敗れれば全体が離れます」と言った。少師は「王に当たらねば敵とはいえぬ」と言った。従わなかった。
- 速杞で戦い、隨の師は大敗した。隨侯は逃れ、鬭丹がその戎車と戎右の少師を捕らえた。
- 秋、隨と楚が和睦した。楚子は許すまいとしたが、鬭伯比は「天はその病(少師)を除きました。隨はまだ克てません」と言った。そこで盟って引き上げた。
桓公九年(前703年)
- 春、巴子が韓服に楚へ告げさせ、鄧と好誼を結ぶことを請うた。楚子は道朔に巴の客を伴わせて鄧に聘問させた。鄧の南の辺境の鄾人が攻めてその幣を奪い、道朔と巴の行人を殺した。楚子は薳章に鄧を咎めさせたが、鄧人は受け入れなかった。
- 夏、楚子は鬭廉に師を率いさせ、巴の師とともに鄾を囲んだ。鄧の養甥と聃甥が師を率いて鄾を救い、三たび巴の師を逐ったが克てなかった。鬭廉はその師を巴の師の中に横に陣し、戦って敗走した。鄧人が追うと、巴の師を背にして挟み撃ちにした。鄧の師は大敗し、鄾人は夜に潰えた。
桓公十一年(前701年)
- 楚の屈瑕が貳と軫と盟おうとした。鄖人が蒲騷に軍し、隨・絞・州・蓼とともに楚の師を討とうとした。莫敖はこれを患えた。
- 鬭廉は言った。「鄖人はその郊に軍しており、必ず用心していません。しかも日々、四つの邑が来るのを当てにしています。あなたは郊郢に駐屯して四邑を防ぎ、私は精鋭で夜に鄖を襲う。鄖は当てにする心があってその城を恃み、闘志がありません。鄖の師を破れば四邑は必ず離れます」。莫敖が「王に増援を請うてはどうか」と言うと、「師が克つのは和にあって衆にはありません。商と周が敵し得なかったのは、あなたも聞かれたとおり。軍を成して出たのに、何の増援が要りましょう」と答えた。莫敖が「卜おう」と言うと、「卜は疑いを決するもの。疑わぬのに何を卜いましょう」と答えた。そのまま蒲騷で鄖の師を破り、ついに盟って引き上げた。
桓公十二年(前700年)
- 楚が絞を討ち、その南門に軍した。莫敖屈瑕は「絞は小さくて軽い。軽ければ謀が少ない。薪取りに護衛をつけずに誘うことを請う」と言った。従った。絞人は三十人を捕らえた。翌日、絞人は争って出て、楚の役夫を山中で追い立てた。楚人は北門に構えて山下に伏せ、大敗させ、城下の盟を結んで引き上げた。
- 絞を討った役で、楚の師は分かれて彭水を渡った。羅人が討とうとして伯嘉に偵察させ、三度巡って数えた。
桓公十三年(前699年)
- 春、楚の屈瑕が羅を討った。鬭伯比が送って帰り、その御者に「莫敖は必ず敗れる。足の上げ方が高い。心が定まっていない」と言った。そのまま楚子に会って「必ず増援を出されよ」と言った。楚子は断った。
- 入って夫人の鄧曼に告げた。鄧曼は言った。「大夫は衆のことを言ったのではありません。君が小民を信で撫し、諸役人を徳で訓え、莫敖を刑で威されよ、というのです。莫敖は蒲騷の役に味を占め、我意を通そうとし、必ず羅を侮る。君がもし鎮め撫されねば、備えを設けぬのではありませんか。彼はまことに、君が衆を訓えてよく鎮め撫し、諸役人を召して令徳を勧め、莫敖に会って天が容赦せぬことを告げよ、と言ったのです。そうでなければ、どうして楚の師がことごとく出たことを知らぬはずがありましょう」。
- 楚子は賴人に追わせたが及ばなかった。莫敖は師に「諫める者は刑に処す」と触れさせた。鄢に至って隊列を乱して渡り、そのまま隊列もなく、備えも設けなかった。羅に至ると、羅と盧戎が両方から挟んで大敗させた。莫敖は荒谷で縊れ、諸将は冶父に囚われて処罰を待った。楚子は「孤の罪だ」と言い、みな赦した。
莊公四年(前690年)
- 春王三月、楚の武王が荊尸の陣法を布いて師に戟を授け、隨を討とうとした。斎戒しようとして入り、夫人の鄧曼に「余は心が揺らぐ」と告げた。
- 鄧曼は嘆じて言った。「王の禄は尽きました。満ちて揺らぐのは天の道です。先君はそれをご存じだったのでしょう。だから武事に臨み大命を発しようとするときに王の心を揺るがされたのです。もし師に欠けがなく、王が道中で薨じられるなら、国の福です」。
- 王はそのまま出発し、樠木の下で卒した。令尹の鬭祁と莫敖の屈重が道を開き、溠に橋を架け、軍営を構えて隨に臨んだ。隨人は懼れて和睦した。莫敖は王命として入って盟い、あわせて漢汭で会することを請うて引き上げた。漢水を渡ってから喪を発した。
莊公六年(前688年)
- 楚の文王が申を討ち、鄧を通った。鄧の祁侯は「我が甥だ」と言って引き留めて饗した。騅甥・聃甥・養甥が楚子を殺すことを請うたが、鄧侯は許さなかった。
- 三甥は言った。「鄧国を滅ぼす者は必ずこの人です。もし早く図らねば、後に君は臍を噬むことになる。図られるなら、いまがその時です」。鄧侯は「そんなことをすれば、人は私の食べ残しも口にすまい」と言った。答えて「もし三人の臣に従われねば、社稷こそまことに血食を絶たれます。君はどこから食べ残しを得られるのか」と言った。従わなかった。
- その翌年、楚子は鄧を討ち、十六年に楚は改めて鄧を討って滅ぼした。
莊公十年(前684年)
- 蔡の哀侯が陳から妻を娶り、息侯もまた娶った。息媯が嫁ぐとき蔡を通った。蔡侯は「我が妻の妹だ」と言って引き留めて会ったが、賓客としての礼を尽くさなかった。息侯は聞いて怒り、楚の文王に「我が国を討たれよ。私が蔡に救いを求めるので、蔡を討たれよ」と言わせた。楚子は従った。
- 秋九月、楚は莘で蔡の師を破り、蔡侯獻舞を伴って帰った。
莊公十四年(前680年)
- 蔡の哀侯は莘の一件のゆえに、息媯のことを楚子に美しく語った。楚子は息へ行き、食事を口実に入って饗され、そのまま息を滅ぼし、息媯を伴って帰った。堵敖と成王を生んだが、口をきかなかった。楚子が問うと、「私は一人の婦人でありながら二人の夫に仕えた。死ねなかったとしても、その上まだ何を言いましょう」と答えた。
- 楚子は蔡侯が息を滅ぼさせたとして、そのまま蔡を討った。秋七月、楚が蔡に入った。君子は言う。「商書にいわゆる『悪の広がりやすきは、火が原を焼くごとし。近寄れもせぬのに、どうして撲滅できよう』とあるのは、蔡の哀侯のことであろうか」。
莊公十八年(前676年)
- はじめ楚の武王が權に克ち、鬭緡を長官としたが叛いたので、囲んで殺した。權を那處へ遷し、閻敖を長官とした。文王が即位して巴人とともに申を討ち、その師を驚かせた。巴人は楚に叛いて那處を討って取り、そのまま楚の城門を攻めた。閻敖は涌水を泳いで逃げた。楚子はこれを殺し、その一族が乱を起こした。冬、巴人はこれに乗じて楚を討った。
莊公十九年(前675年)
- 春、楚子が防いだが津で大敗した。帰ると鬻拳が入れなかったので、そのまま黄を討ち、踖陵で黄の師を破った。帰って湫に至って病み、夏六月庚申に卒した。鬻拳は夕室に葬り、自らも死んで絰皇に葬られた。
- はじめ鬻拳が強く楚子を諫め、楚子が従わぬので兵で臨んだ。楚子は懼れて従った。鬻拳は「私は君を兵で懼れさせた。これ以上の罪はない」と言い、そのまま自ら足を斬った。楚人は大閽とし、大伯と呼び、その子孫にこれを掌らせた。君子は言う。「鬻拳は君を愛したといえる。諫めて自らを刑に入れ、刑を受けてもなお君を善に入れることを忘れなかった」。
僖公五年(前655年)
- 楚の鬭穀於菟が弦を滅ぼした。弦子は黄へ亡命した。このとき江・黄・道・柏はいずれも齊と睦まじく、みな弦の姻戚であった。弦子はこれを頼んで楚に仕えず、また備えも設けなかった。それゆえ滅んだ。
僖公十一年(前649年)
- 黄人が楚への貢を納めなかった。冬、楚人が黄を討った。
僖公十二年(前648年)
- 黄人は諸侯が齊と睦まじいのを頼んで楚への職貢を供せず、「郢から我らまで九百里ある。どうして我らを害せよう」と言った。夏、楚が黄を滅ぼした。
僖公二十年(前640年)
- 隨が漢東の諸侯を率いて楚に叛いた。冬、楚の鬭穀於菟が師を率いて隨を討ち、和睦を取り付けて引き上げた。君子は言う。「隨が討たれたのは力を量らなかったからである。力を量って動けば過ちは少ない。成敗は自らによるのであって、人によろうか。詩に『あに夙夜せざらんや、行くに露多しと謂う』とある」。
僖公二十二年(前638年)
- 宋人と楚人が泓で戦い、宋の師は大敗した。
- 丙子の明け方、鄭の文公夫人の芈氏と姜氏が柯澤で楚子を労った。楚子は師縉に俘虜と馘を示させた。君子は言う。「礼でない。婦人は送迎に門を出ず、兄弟に会うにも敷居を越えぬ。戎車は女の器物に近づけぬ」。
- 丁丑、楚子は鄭に入って饗され、九献の礼、庭に並べる贈り物は百を数え、籩豆六品を加えた。饗が終わって夜に出た。文芈が軍まで送り、鄭の二人の姫を取って帰った。
- 叔詹は「楚王は真っ当な死を得られまい。礼を行いながら男女の別がないところで終わった。別がなければ礼とはいえぬ。何によって全うできよう」と言った。諸侯はこれによって楚が覇を遂げられぬことを知った。
僖公二十三年(前637年)
- 秋、楚の成得臣が師を率いて陳を討った。宋に二心を抱いたことを咎めたのである。そのまま焦と夷を取り、頓に城を築いて引き上げた。子文はこれを功として令尹とした。叔伯が「あなたは国をどうするおつもりか」と言うと、「私は国を靖めるためだ。そもそも大功があって貴い官に就けぬ者で、よく靖んじていられる者がどれほどいようか」と答えた。
僖公二十五年(前635年)
- 秋、秦と晉が鄀を討った。楚の鬭克と屈禦寇が申と息の師で商密を守った。秦人は析の隈を通り、入って輿夫を縛って商密を囲み、日暮れに城に迫った。夜、穴を掘って血を流し盟書を加え、子儀・子邊と盟った振りをした。商密の人は懼れて「秦は析を取った。守備兵は寝返った」と言い、そこで降った。秦の師は申公子儀と息公子邊を捕らえて帰った。楚の令尹子玉が秦の師を追ったが及ばず、そのまま陳を囲み、頓子を頓に納れた。
僖公二十六年(前634年)
- 夔子が祝融と鬻熊を祀らなかった。楚人が咎めると、「我が先王の熊摯は病があり、鬼神が赦さなかったので自ら夔に隠れた。それで楚を失った。その上まだ何を祀ろう」と答えた。秋、楚の成得臣と鬭宜申が師を率いて夔を滅ぼし、夔子を伴って帰った。
文公元年(前626年)
- はじめ楚子が商臣を太子にしようとして令尹の子上に諮った。子上は言った。「君の年齢はまだお若く、そのうえ愛される者が多い。廃せば乱となります。楚国の擁立は常に年少の者にあります。しかもこの人は蜂のような目と豺のような声、残忍な人です。立ててはなりません」。聴かなかった。
- やがてまた王子職を立てて太子商臣を廃そうとした。商臣は聞いたがまだ確かめられず、その師の潘崇に「どうすれば確かめられるか」と告げた。潘崇は「江芈を饗して敬まずにおられよ」と言った。従った。江芈は怒って「ふん、この下郎め。道理で王が汝を殺して職を立てようとされるわけだ」と言った。潘崇に告げて「まことだった」と言った。
- 潘崇が「あの方に仕えられるか」と問うと「できぬ」と言った。「亡命できるか」と問うと「できぬ」と言った。「大事を行えるか」と問うと「できる」と言った。
- 冬十月、宮中の甲兵で成王を囲んだ。王は熊の掌を食べてから死にたいと請うたが、聴かなかった。丁未、王は縊れた。靈と諡すと目を閉じず、成と諡すと閉じた。
- 穆王が立ち、太子であったときの家財を潘崇に与えて大師とし、あわせて環列の尹を掌らせた。
文公三年(前624年)
- 秋、楚の師が江を囲んだ。晉の先僕が楚を討って江を救った。
- 冬、晉が江のゆえに周に告げた。王叔桓公と晉の陽處父が楚を討って江を救い、方城を攻めたが、息公子朱に遇って引き返した。
文公四年(前623年)
- 秋、楚人が江を滅ぼした。
文公五年(前622年)
- 六人が楚に叛いて東夷についた。秋、楚の成大心と仲歸が師を率いて六を滅ぼした。冬、楚子燮が蓼を滅ぼした。臧文仲は六と蓼が滅んだと聞いて「臯陶と庭堅の祀が突然絶えた。徳が立たず民に援けがない。哀しいことだ」と言った。
文公十六年(前611年)
- 楚が大飢饉となった。戎がその西南を討って阜山に至り、大林に軍し、またその東南を討って陽丘に至り、訾枝を侵した。庸人が諸蛮を率いて楚に叛き、麇人が百濮を率いて選に集まって楚を討とうとした。このとき申と息の北門は開かれなかった。
- 楚人は阪高へ遷ることを謀った。蔿賈は言った。「なりません。我らが行けるなら敵も行ける。庸を討つに如きません。そもそも麇と百濮は我らが飢えて出師できぬと思って討つのです。もし我らが師を出せば必ず懼れて帰り、百濮はばらばらに住んでおり、それぞれ自分の邑へ走る。誰が人を謀る暇がありましょう」。
- そこで師を出した。十五日で百濮はやめた。廬から先は倉を開いて同じものを食べ、句澨に駐屯した。廬の戢黎に庸を侵させ、庸の方城に及んだ。庸人が逐い、子揚窻を捕らえた。三晩して逃げ、「庸の師は多く、諸蛮が集まっている。大軍を改めて出し、あわせて王の親兵を起こして合流してから進むに如かぬ」と言った。
- 師叔は言った。「なりません。しばらくまた出会って驕らせなさい。彼が驕り我らが怒れば克てます。先君の蚡冒が陘隰を服させたやり方です」。また出会って七たび敗走した。ただ裨・鯈・魚の人だけがこれを逐った。庸人は「楚は戦うに足りぬ」と言い、そのまま備えを設けなかった。
- 楚子は早馬に乗って臨品で師と合流し、二隊に分け、子越は石溪から、子貝は仞から庸を討った。秦人と巴人が楚の師に従い、諸蛮が楚子と盟い、そのまま庸を滅ぼした。
宣公八年(前601年)
- 楚は諸々の舒が叛いたゆえに舒蓼を討って滅ぼした。楚子は境を定めて滑汭に及び、呉・越と盟って引き上げた。
成公九年(前582年)
- 冬十一月、楚の子重が陳から莒を討ち、渠丘を囲んだ。渠丘の城は粗末で、衆は潰えて莒へ逃げた。戊申、楚が渠丘に入った。莒人が楚の公子平を捕らえた。楚人は「殺すな。我らは俘虜を返す」と言ったが、莒人は殺した。
- 楚の師が莒を囲んだ。莒の城もまた粗末で、庚申に莒は潰えた。楚はそのまま鄆に入った。莒に備えがなかったからである。
- 君子は言う。「粗末なのを頼んで備えぬのは罪の大なるもの、思わぬことに予め備えるのは善の大なるものである。莒はその粗末さを恃んで城郭を修めず、十二日の間に楚がその三つの都に克った。備えがなかったのだ。詩に『絲や麻ありといえども菅や蒯を棄つるなかれ、姫や姜ありといえども憔悴せる者を棄つるなかれ。およそ百君子、匱しきに代えざるはなし』とある。備えはやめられぬということである」。
成公十七年(前574年)
- 舒庸人は楚の師が敗れたゆえに、呉人を導いて巢を囲み、駕を討ち、釐と虺を囲み、そのまま呉を恃んで備えを設けなかった。楚の公子槖師が舒庸を襲って滅ぼした。
襄公二十四年(前549年)
- 呉人は楚の舟師の役のゆえに舒鳩人を招いた。舒鳩人は楚に叛いた。楚子は荒浦に軍し、沈尹壽と師祁犂に咎めさせた。舒鳩子は敬んで二人を迎え、そのようなことはないと告げ、あわせて盟を受けることを請うた。
- 二人が復命すると、王は討とうとした。薳子は言った。「なりません。彼は叛かぬと告げ、あわせて盟を受けることを請うている。それをまた討つのは罪なきを討つことです。しばらく帰って民を休め、その最後を待たれよ。最後まで二心がなければ、我らは何を求めましょう。もしなお我らに叛くなら、彼に言い訳はなく、我らには理由がある」。そこで引き上げた。
襄公二十五年(前548年)
- 舒鳩人がついに叛いた。楚は子木に討たせた。離城に至って呉人が救った。子木は急ぎ右師をもって先んじ、子疆・息桓・子捷・子駢・子盂が左師を率いて退いた。呉人はその間に居ること七日。
- 子疆は言った。「長引けば窮する。窮すれば捕らわれる。速やかに戦うに如かず。その私兵で誘うことを請う。師を選んで陣し我らを待たれよ。我らが克てば進み、敗走すればそれを見て救う。それでこそ免れられる。でなければ必ず呉に捕らわれる」。従った。
- 五人はその私兵で先に呉の師を撃った。呉の師は敗走し、山に登って望み、楚の師が続かぬのを見てまた追った。その軍に引きつけたところで、選んだ師が合流し、呉の師は大敗した。
- そのまま舒鳩を囲み、舒鳩は潰えた。八月、楚が舒鳩を滅ぼした。楚子は舒鳩を滅ぼしたことで子木を賞したが、辞退して「先大夫の蔿子の功です」と言い、蔿掩に与えた。
史論(士竒)
- 楚は鬻熊の裔で荊山に国し、熊通に至って初めて大きくなり、小国を呑み滅ぼして僭かに王号を称した。天子は人を遣わして胙を賜い、「爾の南方を鎮めよ、中国を侵すなかれ」と言った。まだ冠帯の諸侯の列に並べられていなかったのである。
- その雄心を収めず、狡猾に封疆を開くに及んで、次第に幅員数千里、甲士数十万となり、原を焼く火のようにもはや消せなくなった。
- その併呑の跡を考えるに、鄧で初めて楚を懼れたのが最も先である。蔡の哀侯が息媯のことを楚子に語って息が滅び、權を那處へ遷して權が滅び、弦が齊を恃んで楚を侮って弦が滅び、黄人が楚への貢を修めずに黄が滅び、夔子が祝融と鬻熊を祀らずに夔が滅び、陽處父が江を救って克てずに江が滅び、臯陶と庭堅の祀が絶えて六と蓼が滅び、諸蛮が楚に従って庸が滅び、滑汭に境を開いて舒蓼が滅び、呉を恃んで備えずに舒庸が滅び、蔿掩に功を賞して舒鳩が滅んだ。春秋で国を滅ぼすことの最も多い者は、楚に及ぶものがない。
- 外紀には、楚の文王が如黄の犬と箘簵の矰を得て雲夢に狩りして三月帰らず、また舟の姫を得て一年朝を聴かず、保申がひとたび諫めて行いを改めて治を図り、三十国を併呑したとある。その国々はもはや考証できない。
- いま按ずるに、文王は申を討ち、ついでに鄧を滅ぼした。申が滅んだことは経に見えない。しかし城濮の戦いで、伝は楚子が申に入り居たといい、敗れると王が大夫に「もし帰れば申と息の老人たちをどうするのか」と言わせたとある。とすれば申が楚の県に沈んだことは甚だ明らかである。
- そもそも先代の帯礪の国が碁のように布かれ星のように羅なり、南は荊蛮を防いで北は中原の屏となったもののうち、最も大きいのは陳と蔡、次が申と息、次が江と黄、次が唐と鄧である。そして唐と鄧はことに方城の外に逼って住み、楚の門戸であった。
- 鄧が亡んでから楚の兵は申と息が受け、申と息が亡んでから楚の兵は江と黄が受け、江と黄が亡んでから楚の兵は陳と蔡が受け、陳と蔡が支えきれずに楚の兵はついに上国と交わることになった。
- 魯の桓公が立ったばかりのころ、鄧侯は遠路をいとわず来朝した。とすれば辺鄙に安んじず諸夏を慕う心があったことは思うに値する。楚の勢いが次第に張ってから蔡と鄭が鄧で会したのだから、内外強弱の大きな機はここに繋がっていた。
- もし陳・蔡・申・息・江・黄・唐・鄧の諸国がまことに心を協せ力を併せて互いに唇歯となり、楚が一国を討てば諸国が兵を提げてともに撃ったなら、楚も震え憚って自ら挫けなかったとは限らない。
- そもそも隨という国は方城の内に限られ、楚にことに逼っていながら、しばしば楚の鋒に抗して独り後まで滅びなかった。まして諸国の力を合わせて互いに救い存すれば、どうして楚に敵し得なかろう。
- ところが鄧の会の後、深謀遠慮を聞くことは絶えてなく、鄧をまず折って楚に入らせた。楚はこれによって諸姫を目にもかけず、破竹の勢いに乗り、北門が開いて長淮の外は兵を受けぬ年がなくなった。まことに失策である。
- しかし楚は鄧を滅ぼし申と息を県とし江と黄を損なってから、六・蓼の諸国に至るまで併呑せぬものはなく、地は天下の半ばに近く、ひそかに鼎の軽重を問う心を抱きながら、ついに遂げられなかった。それは封建が互いに繋がり合う勢いがなお存し、桓公・文公が斥け攘った功が没しえぬからである。