左傳紀事本末宋の襄公、覇を図る(宋襄公圖伯)
宋の襄公が齊の桓公の後を継いで覇を図り、泓の戦いに敗れて死ぬまでを、僖公八年(前652年)から僖公二十四年(前636年)まで追う篇。太子であったころ庶兄の目夷に位を譲ろうとし、即位して目夷を左師として政を聴かせた。齊の桓公から託された孝公を立てるため齊を討ち、無虧を殺させた。鄫子を次睢の社の犠牲に用い、曹を囲み、鹿上で楚に諸侯を求め、盂の会で楚に捕らえられるなど、子魚(目夷)の諫めをことごとく退けた。僖公二十二年(前638年)、泓で楚と戦い「列を成さぬ者に鼓を打たぬ」として大敗し、股の傷がもとで翌年に卒した。
年表(12件)
- 僖公八年前652年太子の兹父が庶兄の目夷に位を譲ろうとし、子魚は辞退して走り退く
- 僖公九年前651年桓公が卒して襄公が即位し、目夷を左師として政を聴かせる
- 僖公十五年前645年宋人が旧怨によって曹を討つ
- 僖公十六年前644年隕石五つと六鷁の退飛があり、叔興が「終わりを全うされぬ」と告げる
- 僖公十七年前643年齊の桓公が孝公を襄公に託し、桓公の没後に孝公が宋へ亡命する
- 僖公十八年前642年襄公が諸侯を率いて齊を討ち、甗で破って孝公を立てる
- 僖公十九年前641年鄫子を次睢の社の犠牲に用い、曹を囲んで子魚に諫められる
- 僖公二十年前640年諸侯を合わせようとし、臧文仲がその欲の順序を非とする
- 僖公二十一年前639年鹿上で楚に諸侯を求め、盂の会で楚に捕らえられて薄で釈放される
- 僖公二十二年前638年泓の戦いで大敗して股を傷つけ、子魚が用兵の道を説く
- 僖公二十三年前637年齊が緡を囲み、五月に襄公が泓の傷によって卒する
- 僖公二十四年前636年宋が楚と和睦し、成公が帰路に鄭で厚い礼を受ける
僖公八年(前652年)
- 冬、宋公が病んだ。太子の兹父は固く請うて「目夷は年長で仁です。君はこれを立てられよ」と言った。公は子魚(目夷)に命じた。子魚は辞退して「国を譲れるなら、これ以上の仁がありましょうか。臣は及びません。しかも順でもありません」と言い、そのまま走って退いた。
僖公九年(前651年)
- 春、宋の桓公が卒した。まだ葬らぬうちに襄公が諸侯と会したので「子」と称した。およそ喪中にあるとき、王は「小童」、公侯は「子」という。
- 冬、宋の襄公が即位し、公子目夷を仁として左師とし政を聴かせた。それで宋は治まった。だから魚氏は代々左師となった。
僖公十五年(前645年)
- 冬、宋人が曹を討った。旧怨を討ったのである。
僖公十六年(前644年)
- 春、宋に石が五つ隕ちた。隕星である。六羽の鷁が後退りして飛び、宋の都を過ぎた。風のためである。
- 周の内史叔興が宋を聘問した。宋の襄公が「これは何の兆しか。吉凶はどこにあるか」と問うと、「今年、魯に大きな喪が多く、来年、齊に乱があります。君はやがて諸侯を得られますが、終わりを全うされません」と答えた。退いて人に「君は問い方を誤った。これは陰陽の事であって吉凶の生ずるところではない。吉凶は人による。私は君に逆らえなかっただけだ」と告げた。
僖公十七年(前643年)
- 齊の桓公と管仲が孝公を宋の襄公に託し、太子とした。冬、桓公が卒すると易牙が入り、寺人貂とともに内寵の力を借りて群吏を殺し公子無虧を立てた。孝公は宋へ亡命した。
僖公十八年(前642年)
- 春、宋の襄公が諸侯を率いて齊を討った。
- 鄭伯が初めて楚に朝し、楚子は金を賜ったが、まもなく後悔して「これで兵器を鋳るな」と盟った。だからそれで三つの鐘を鋳た。
- 夏五月、宋が甗で齊軍を破り、孝公を立てて引き上げた。
僖公十九年(前641年)
- 春、宋人が滕の宣公を捕らえた。
- 宋公・曹人・邾人が曹南で盟い、鄫子が邾で盟に会した。夏、宋公は邾の文公に鄫子を次睢の社の犠牲に用いさせた。東夷を属させようとしたのである。
- 司馬子魚は言った。「古は六畜を互いに用いず、小さな事に大きな犠牲を用いなかった。まして人を用いるなど。祭祀は人のためにするもの。民は神の主です。人を用いて、誰がそれを享けましょう。齊の桓公は三つの亡国を存続させて諸侯を属させたが、義士はなお徳が薄いといった。いま一度の会で二国の君を虐げ、そのうえ淫らで昏い鬼に用いる。それで覇を求めるのは難しいのではないか。真っ当な死を得られれば幸いである」。
- 秋、宋人が曹を囲んだ。服さぬのを討ったのである。子魚は宋公に言った。「文王は崇の徳が乱れていると聞いて討ちましたが、軍を出して三十日たっても降らなかった。退いて教えを修めてから改めて討つと、塁を築いただけで降った。詩に『寡妻に型として兄弟に至り、もって家邦を御む』とあります。いま君の徳になお欠けがあるのに人を討たれる。どうされるのか。ひとまず内に徳を省みられてはどうか。欠けがなくなってから動かれよ」。
- 陳の穆公が諸侯に好誼を修めて齊の桓公の徳を忘れぬようにすることを請い、冬、齊で盟った。桓公の好誼を修めたのである。
僖公二十年(前640年)
- 冬、宋の襄公が諸侯を合わせようとした。臧文仲はこれを聞いて「欲を人に従わせるならよいが、人を欲に従わせて成る例は稀である」と言った。
僖公二十一年(前639年)
- 春、宋人が鹿上の盟を行い、楚に諸侯を求めた。楚人は許した。公子目夷は「小国が盟を争うのは禍である。宋は滅びるだろう。運がよくても後に敗れる」と言った。
- 秋、諸侯が宋公と盂で会した。子魚は「禍はここにあるか。君の欲は甚だしすぎる。どうして堪えられよう」と言った。そこで楚は宋公を捕らえて宋を討った。冬、薄で会して釈放した。子魚は「禍はまだだ。君を懲らすには足りぬ」と言った。
僖公二十二年(前638年)
- 春三月、鄭伯が楚へ行った。夏、宋公が鄭を討った。子魚は「いわゆる禍がここにある」と言った。
- 秋、楚人が宋を討って鄭を救った。宋公が戦おうとすると、大司馬固が諫めて「天が商を棄てて久しい。君はそれを興そうとされる。赦されますまい」と言ったが、聴かなかった。
- 冬十一月己巳朔、宋公が楚人と泓で戦った。宋人はすでに列を成し、楚人はまだ渡り終えていなかった。司馬が「彼は衆く我らは寡ない。まだ渡り終えぬうちに撃つことを請う」と言うと、公は「ならぬ」と言った。渡り終えてまだ列を成さぬときにまた告げると、公は「まだだ」と言った。陣を敷いてから撃ち、宋軍は大敗した。公は股を傷つけ、門官は全滅した。
- 国人はみな公を咎めた。公は「君子は傷ついた者を重ねて傷つけず、二毛の者を捕らえぬ。古の軍は隘路で阻むことをしなかった。寡人は亡国の余りとはいえ、列を成さぬ者に鼓を打たぬ」と言った。
- 子魚は言った。「君は戦を知られぬ。強敵の人が隘路にあって列を成さぬのは天が我らを助けたのです。阻んで鼓を打って何の悪いことがありましょう。それでもなお懼れるべきほどです。しかもいまの強者はみな我らの敵です。老翁に至っても捕らえれば取る。二毛に何の関わりがありましょう。恥を明らかにし戦を教えるのは敵を殺すことを求めるためです。傷ついてもまだ死んでいなければ、どうして重ねて傷つけずにおれましょう。重ねて傷つけるのを惜しむなら、初めから傷つけぬがよい。二毛を愛しむなら、服従するがよい。三軍は利によって用い、金鼓は声によって気を発する。利あって用いるなら隘路でもよく、声が盛んで志を致すなら、乱れた者に鼓を打ってもよいのです」。
僖公二十三年(前637年)
- 春、齊侯が宋を討って緡を囲んだ。齊での盟に加わらなかったことを咎めたのである。
- 夏五月、宋の襄公が卒した。泓の傷によるものである。
僖公二十四年(前636年)
- 秋、宋が楚と和睦した。宋の成公が楚へ行き、帰りに鄭へ入った。鄭伯が饗応しようとして皇武子に礼を問うと、「宋は先代の後であり、周にとって客です。天子は祭事に膰を贈り、喪には拝します。豊かに厚くしてよろしい」と答えた。鄭伯は従い、宋公を饗応して礼を加えた。
史論(士竒)
- 宋の襄公は亡国の余りから起こって覇を図った。齊の桓公の跡を追ったのである。まず齊に兵を用いて君を立てる義に託した。その意は、覇国がすでに従えば、軒下の諸侯も痛めつけずに服すると考えたのであろう。
- そもそも齊の桓公が覇を成したのは、襄王の位を定めたことと葵丘で五禁を申べたことによる。孝公は桓公が託した者とはいえ、無虧は長衞姫の生んだ子であり、兄弟の序は甚だ明らかである。それをたちまち齊の喪に乗じて討ち、年少を奉じて年長を奪い、無虧に真っ当な死を得させなかった。上下の分を乱し篡弑の階を長じたのでは、何をもって天下の盟主となれよう。
- 兵威の及ぶところ、なお一つの曹すら服させられぬのに、楚と覇を争おうとした。星が隕ち鷁が飛び、天変が上に現れ、目夷が深く憂え遠く慮って人事が下に現れた。鹿上での捕縛と辱めは明らかな戒めとできたのに、そのうえ鄭を討って楚の怒りを挑発し、兵は敗れ身は傷ついて、年を越してついに卒した。甚だしいことだ、宋の襄公の愚かさは。
- 泓の敗北について、ある者は司馬の言に従わず楚を険阻で扼せず、傷ついた者を重ねて傷つけ二毛を捕らえるに忍びなかったからだといい、宋の襄公もまた死ぬまで悔いず、仁義の師を行えたのに不幸にも敗れたのだという。ああ、宋の襄公は誰を欺こうとするのか。
- そもそも禍は人の骨肉を残なうことより惨いものはなく、国君を芻狗のように扱うことより甚だしいものはない。無虧を殺し鄫子を犠牲に用いたのは、傷ついた者を重ねて傷つけ二毛を捕らえるのとどちらが大きいか。天に逆らい理を害する事を宋の襄公はあえて行い、しかも虚名を飾って実の禍を取った。これがいわゆる婦人の仁である。これで覇を図るのは難しいのではないか。
- 速やかを欲して小を見、諸侯を合わせることに急ぎ、長く駕して遠くを馭す大略に暗かったことは、先儒が曹南の伝ですでに存分に論じている。しかしその計算違いがことに齊を討って孝公を立てた始めにあったことは知られていない。