左傳紀事本末晉、虞と虢を滅ぼす(驪姬の乱/惠公・懐公の擁立を付す)(晉滅虞虢(驪姬之亂附/惠懐之立))
晉が虞に道を借りて虢を滅ぼし、帰路に虞をも滅ぼした一件を軸に、驪姫の乱と惠公・懷公の擁立までを収める篇。桓公十年(前702年)から僖公二十三年(前637年)まで。荀息の献じた屈産の馬と垂棘の璧に虞公が応じ、宮之奇の「輔車相依り、唇亡べば歯寒し」の諫めは容れられず、僖公五年(前655年)に虢と虞は相次いで滅んだ。驪姫は梁五・東関嬖五と結んで太子申生を曲沃へ、重耳と夷吾を蒲と屈へ遠ざけ、僖公四年(前656年)に胙に毒を入れて申生を死に追いやった。獻公の没後、里克が奚齊と卓子を殺し、荀息は言に殉じた。夷吾は秦の力で立ったが約束を反故にし、僖公十五年(前645年)の韓原の戦いで捕らえられた。
年表(21件)
- 桓公十年前702年虢公が虞へ亡命し、虞叔が飽くことを知らぬ虞公を討つ
- 莊公二十六年前668年虢人が二度にわたって晉を侵す
- 莊公二十七年前667年晉侯が虢討伐を謀り、士蒍が虢の衆を失うのを待つよう説く
- 莊公三十二年前662年神が莘に降り、虢が神に命を請うたのを史嚚が滅亡の兆しとする
- 僖公二年前658年荀息の計で虞に道を借り、虞軍とともに虢の下陽を滅ぼす
- 僖公五年前655年宮之奇の諫めが容れられず、晉が虢を滅ぼし、帰路に虞をも襲って滅ぼす
- 莊公二十八年前666年驪姫が二五耦と謀り、申生を曲沃、重耳を蒲、夷吾を屈へ遠ざける
- 閔公元年前661年晉が耿・霍・魏を滅ぼし、士蒍が申生の立てられぬことを予言する
- 閔公二年前660年申生が偏衣と金玦を与えられて東山の臯落氏を討ち、諸臣が異変を読む
- 僖公四年前656年驪姫が胙に毒を入れて申生を新城で縊れさせ、重耳と夷吾も逃れる
- 僖公五年(申生の後)前655年寺人披が蒲を討ち、重耳が袖を斬られて翟へ亡命する
- 僖公六年前654年賈華が屈を討ち、夷吾は郤芮の勧めで梁へ亡命する
- 僖公九年前651年獻公が卒し、里克が奚齊と卓子を殺して荀息は言に殉ずる
- 僖公十年前650年惠公が立って里克を殺し、丕鄭ら七輿大夫も誅されて丕豹が秦へ走る
- 僖公十一年前649年晉侯が王の瑞玉を受けるのに怠り、内史過が後嗣なきを予言する
- 僖公十三年前647年晉の飢饉に秦が粟を送り、汎舟の役と呼ばれる
- 僖公十四年前646年秦の飢饉に晉は融通を閉ざし、慶鄭が四つの徳を失うと諫める
- 僖公十五年前645年韓原の戦いで晉侯が秦に捕らえられ、陰飴甥の弁で帰されて爰田と州兵を作る
- 僖公十七年前643年太子圉が秦の人質となり、秦が河東を返して娘を娶らせる
- 僖公二十二年前638年太子圉が嬴氏を残して秦から逃げ帰る
- 僖公二十三年前637年惠公が卒し、懷公が狐突に子の召還を迫って容れられず殺す
桓公十年(前702年)
- 春、虢仲がその大夫の詹父を王に讒言した。詹父には言い分があり、王の軍を率いて虢を討った。夏、虢公は虞へ亡命した。
- はじめ虞叔が玉を持っており、虞公が求めたが献じなかった。まもなく後悔して「周の諺に『匹夫に罪なし、璧を懐くがその罪』とある。私はこれを何に使おう。これで害を買うのか」と言い、そこで献じた。すると今度は宝剣を求めた。叔は「これは飽くことを知らぬ。飽くことを知らねば我が身に及ぶ」と言い、そのまま虞公を討った。それで虞公は共池へ亡命した。
莊公二十六年(前668年)
- 秋、虢人が晉を侵した。
- 冬、虢人がまた晉を侵した。
莊公二十七年(前667年)
- 冬、晉侯が虢を討とうとした。士蒍は「なりません。虢公は驕っております。もし我らに続けて勝てば必ずその民を棄てましょう。衆を失ってから討てば、防ごうとしても誰と組めましょう。礼・楽・慈・愛は戦のために蓄えるものです。民は事を譲り合い、和を楽しみ、親を愛し、喪を哀しんではじめて用いられる。虢はそれを蓄えておりません。しきりに戦えば飢えましょう」と言った。
莊公三十二年(前662年)
- 秋七月、神が莘に降った。惠王が内史過に問うと、「国が興ろうとすれば明神が降ってその徳を監み、滅びようとすればまた神が降ってその悪を観ます。だから神を得て興った例もあれば滅びた例もある。虞・夏・商・周いずれにもありました」と答えた。王が「どうすればよいか」と問うと、「その日に応じた供物を捧げなさい。至った日に応じたものがあります」と答え、王は従った。
- 内史過が赴くと、虢が神に命を請うたと聞いた。帰って「虢は必ず滅びます。虐政を行いながら神に聴いております」と言った。神は莘に六か月留まった。虢公は祝の應・宗の區・史の嚚を遣わして享じさせ、神は土田を賜った。史嚚は「虢は滅びるだろう。私は聞いている、国が興ろうとすれば民に聴き、滅びようとすれば神に聴くと。神は聡明正直で一なるもの、人に依って行う。虢には薄い徳が多い。どうして土地を得られよう」と言った。
僖公二年(前658年)
- 晉の荀息が、屈産の馬と垂棘の璧をもって虞に道を借り、虢を討つことを請うた。公が「それは私の宝だ」と言うと、「虞に道が得られるなら、外の蔵に預けるようなものです」と答えた。公が「宮之奇がいる」と言うと、「宮之奇の人となりは気弱で強く諫められません。しかも幼いころから君と一緒で君は馴れ親しんでいる。諫めても聴かれますまい」と答えた。
- そこで荀息を虞へ遣わして道を借り、「冀が不道にも顛軨から入って鄍の三門を攻めました。冀が痛手を負ったのも君のためです。いま虢が不道にも宿場に拠って我が国の南境を侵しております。あえて道をお借りして虢に罪を問いたい」と言わせた。虞公は許し、そのうえ先に虢を討つことを申し出た。宮之奇が諫めたが聴かれず、そのまま軍を起こした。
- 夏、晉の里克と荀息が軍を率い、虞軍と会して虢を討ち、下陽を滅ぼした。経に虞を先に書いたのは賄賂を受けたからである。
- 秋、虢公が桑田で戎を破った。晉の卜偃は「虢は必ず滅びる。下陽を失って懼れもせず、さらに功を挙げた。天がその鑑を奪ってその病を重くしたのだ。必ず晉を侮ってその民を撫さぬだろう。五年ももつまい」と言った。
僖公五年(前655年)
- 秋、晉侯が再び虞に道を借りて虢を討とうとした。宮之奇が諫めた。
- 「虢は虞の表です。虢が滅びれば虞は必ず従います。晉に道を開いてはならず、寇を侮ってはならない。一度でも甚だしいのに、二度もできましょうか。諺にいう『輔車相依り、唇亡べば歯寒し』とは、虞と虢のことです」。
- 公が「晉は我が同宗だ。どうして我を害そうか」と言うと、こう答えた。「大伯と虞仲は太王の昭です。大伯が従わなかったので嗣がなかった。虢仲と虢叔は王季の穆で、文王の卿士となり、勲功が王室にあって盟府に蔵されています。その虢を滅ぼそうというのに、虞に何の愛惜がありましょう。しかも虞は桓叔・莊伯の一族より親しいでしょうか。もし親しみを持つなら、桓叔・莊伯の一族に何の罪があって戮されたのか。圧迫を恐れたからでしょう。親族が寵によって圧迫するだけでも害するのに、まして国においてをや」。
- 公が「私の享祀は豊かで清らかだ。神は必ず私に拠るだろう」と言うと、こう答えた。「臣は聞いております、鬼神は人に親しむのではなく、ただ徳に依ると。だから周書に『皇天に親なし、ただ徳をこれ輔く』とあり、また『黍稷が馨しいのではない、明徳こそ馨しい』とあり、また『民は物を易えず、ただ徳こそ物なり』とあります。とすれば徳がなければ民は和さず神は享けません。神の拠るところは徳にあります。もし晉が虞を取って明徳をもって馨香を薦めれば、神はそれを吐き出しましょうか」。
- 聴かれずに晉の使者を許したので、宮之奇は一族を連れて去り、「虞は臘祭を迎えられまい。この一行で決まる。晉は再び兵を挙げまい」と言った。
- 八月甲午、晉侯が上陽を囲み、卜偃に「うまくいくか」と問うた。「勝ちます」と答えた。「いつか」と問うと、こう答えた。「童謡に『丙の朝、龍尾は日に隠れ、揃いの服が振るい立ち、虢の旗を取る。鶉は賁賁とし、天策は焞焞たり、火が中天で軍が成る。虢公は逃げよう』とあります。九月と十月の交わりでしょう。丙子の朝、日は尾宿にあり月は天策にあり、鶉火が中天にある。必ずその時です」。
- 冬十二月丙子朔、晉は虢を滅ぼし、虢公醜は京師へ亡命した。軍は帰路、虞に宿営し、そのまま虞を襲って滅ぼし、虞公とその大夫の井伯を捕らえて秦の穆姫の媵とし、虞の祀を修め、その職貢を王に納めた。だから経に「晉人虞公を執う」と書き、虞を罪とし、あわせて容易であったことをいう。(以上、晉が虞と虢を滅ぼすまで)
莊公二十八年(前666年)
- 晉の獻公は賈から妻を娶ったが子がなく、齊姜と通じて秦の穆夫人と太子申生を生んだ。また戎から二人の女を娶り、大戎の狐姫が重耳を、小戎子が夷吾を生んだ。晉が驪戎を討つと、驪戎の男は驪姫を差し出し、奚齊を生み、その妹が卓子を生んだ。
- 驪姫は寵愛され、その子を立てようとして、外の寵臣である梁五と東関嬖五に賄賂を贈り、公にこう言わせた。「曲沃は君の宗廟の地、蒲と二屈は君の国境です。主がいなくてはなりません。宗邑に主がなければ民は畏れず、国境に主がなければ戎に心を起こさせます。戎に心が生じ民が政を侮るのは国の患いです。太子に曲沃を、重耳と夷吾に蒲と屈を主らせれば、民を畏れさせ戎を懼れさせられます」。そして二人はともに「狄の広い荒野も晉にとっては都となる。晉が土地を開くのも当然ではないか」と言った。
- 晉侯は喜び、夏、太子を曲沃に、重耳を蒲城に、夷吾を屈に居らせ、群公子をみな辺鄙に置き、ただ二姫の子だけが絳にいた。二人の五はついに驪姫とともに群公子を讒言して奚齊を立てた。晉人は彼らを「二五耦」と呼んだ。
閔公元年(前661年)
- 冬、晉侯が二軍を編成し、公が上軍を、太子申生が下軍を率い、趙夙が戎車を御し、畢萬が右に立って、耿を滅ぼし霍を滅ぼし魏を滅ぼした。帰って太子のために曲沃に城を築き、趙夙に耿を、畢萬に魏を賜って大夫とした。
- 士蒍は言った。「太子は立てまい。都城を分け与え卿の位を与えて、先に極みを与えてしまった。どうして立てられよう。逃げて罪が及ばぬようにするに如くはない。呉の大伯となるのもよいではないか。なお令名が残る。禍に及ぶよりましだ。しかも諺に『心にやましさがなければ、家がなくとも何を憂えよう』とある。天がもし太子を祐けるなら、晉を持たぬということであろう」。
閔公二年(前660年)
- 冬、晉侯が太子申生に東山の臯落氏を討たせた。里克が諫めた。
- 「太子は宗廟の祀と社稷の粢盛を奉じ、朝夕に君の膳を見る者です。だから冢子といいます。君が出れば守り、守る者があれば従う。従うのを撫軍、守るのを監国といい、古の制です。軍を率いて専断で謀り軍旅に誓うのは、君と国政を執る者が図ることであって、太子の事ではありません。軍は命を制することが要です。命を受ければ威がなく、専断すれば不孝となる。だから君の嗣子は軍を率いてはならぬのです。君が官を失い、軍を率いても威がなければ、何の役に立ちましょう。しかも臣は臯落氏が戦うつもりだと聞いております。君はおやめください」。公は「寡人には子があるが、誰を立てるかまだ分からぬ」と言った。里克は答えずに退いた。
- 太子に会うと、太子は「私は廃されるのか」と言った。里克は「民に臨むことを告げられ、軍旅を教えられたのです。務めを果たせぬことを懼れられよ。なぜ廃されましょう。しかもあなたは不孝を懼れられ、立てられぬことを懼れられますな。己を修めて人を責めなければ難を免れます」と答えた。
- 太子が軍を率いると、公は左右で色の違う偏衣を着せ、金の玦を佩びさせた。狐突が戎車を御し、先友が右に立ち、梁餘子養が罕夷の車を御し、先丹木が右に立ち、羊舌大夫が尉となった。
- 先友は「身の半分の衣を着せられ、兵権の要を握られた。この一行にかかっている。励まれよ。身を分かつ衣に邪気はなく、兵権は災いを遠ざける。親しまれて災いがなければ、何を患えましょう」と言った。
- 狐突は嘆いて言った。「時は事の徴、衣は身の章、佩は心の旗である。だから事を敬めば年初の服を命じ、身を服せしめるなら純色の衣を着せ、心を用いるなら法度にかなう佩を与える。いま年の終わりに命じたのは事を閉ざすことであり、雑色の服を着せたのは身を遠ざけることであり、金の玦を佩びさせたのは心を棄てることである。服で遠ざけ、時で閉ざす。雑色は冷ややか、冬は殺、金は寒、玦は離。どうして頼れよう。励もうとしても、狄を討ち尽くせようか」。
- 梁餘子養は「軍を率いる者は廟で命を受け社で脤を受け、定まった服がある。それを得ずに雑色なら、命の意は知れている。死んでも不孝となるくらいなら逃げるに如くはない」と言った。罕夷は「雑色は奇異で常でなく、金の玦は復らぬ意。復ってもどうしようか。君には心がある」と言った。先丹木は「この服は狂人でも尻込みする。『敵を尽くして帰れ』というが、敵を尽くせようか。尽くしてもなお内の讒言がある。背くに如くはない」と言った。
- 狐突は去ろうとしたが、羊舌大夫は「なりません。命に背くのは不孝、事を棄てるのは不忠です。冷ややかで悪いと知っていても、そちらを取ってはならぬ。あなたはそこで死になさい」と言った。
- 太子が戦おうとすると、狐突が諫めた。「なりません。昔、辛伯は周の桓公に『内寵が后に並び、外寵が政を二つにし、嬖子が嫡に配し、大都が国に匹敵するのは乱の本である』と諫めました。周公は従わず、それで難に遭った。いま乱の本はすでに成っております。立つことを必とできましょうか。孝であって民を安んじることをお考えください。身を危うくして罪を速めるよりは」。
僖公四年(前656年)
- はじめ晉の獻公が驪姫を夫人にしようとして卜すると不吉、筮すると吉と出た。公は「筮に従う」と言ったが、卜人は「筮は短く亀は長い。長きに従うに如くはありません。しかもその繇に『専らにすれば変ずる。公の羭を奪う。一つの薫と一つの蕕、十年たってもなお臭う』とあります。必ずいけません」と言った。聴かずに立て、奚齊を生み、その妹が卓子を生んだ。
- 奚齊を立てようとするに至り、中大夫と謀を成した。姫は太子に「君が齊姜の夢を見られた。速やかに祭られよ」と言った。太子は曲沃で祭り、胙を公に届けた。公は狩に出ており、姫は六日それを宮に置いた。公が帰ると毒を入れて献じた。公が地に祭ると地が盛り上がり、犬に与えると犬が死に、小臣に与えると小臣も死んだ。姫は泣いて「賊は太子から出た」と言った。
- 太子は新城へ逃れ、公はその傅の杜原欵を殺した。ある者が太子に「あなたが釈明されれば、君は必ず調べられよう」と言ったが、太子は「君は姫氏なしでは居ても安らがず食べても満ちぬ。私が釈明すれば姫は必ず罪を得る。君は老いておられる。私も楽しめぬ」と言った。「では亡命なさるか」と言うと、「君はまことに調べられぬ。この罪名を負って国を出て、誰が私を受け入れよう」と答えた。
- 十二月戊申、新城で縊れた。姫はそのまま二公子を讒言して「みな知っていた」と言い、重耳は蒲へ、夷吾は屈へ逃れた。
僖公五年(前655年)(申生の後)
- 晉侯が、太子申生を殺した事情を告げてきた。
- はじめ晉侯が士蒍に二公子のために蒲と屈を築かせたとき、丁寧にせず薪を混ぜた。夷吾が訴えると、公は使者を送って責めた。士蒍は稽首して答えた。「臣は聞いております、喪もないのに憂えれば憂いが仇となり、戎もないのに城を築けば仇がそこに拠ると。寇讐が拠る城を、どうして丁寧に作りましょう。官を守って命を廃するのは不敬、仇の拠り所を固めるのは不忠。忠と敬を失って何をもって君に仕えましょう。詩に『徳を懐けば安らかなり、宗子こそ城なり』とあります。君が徳を修めて宗子を固められれば、どんな城もそれに及びません。三年で兵を用いることになりましょう。丁寧にする必要がありましょうか」。退いて「狐の裘は乱れもつれ、一国に三公あり。私は誰に従えばよいのか」と賦した。
- 難が起こると、公は寺人披に蒲を討たせた。重耳は「君父の命に逆らわぬ」と言い、そう触れさせ、「逆らう者は私の仇だ」と言って垣を越えて逃げた。披はその袖を斬った。そのまま翟へ亡命した。
僖公六年(前654年)
- 春、晉侯が賈華に屈を討たせた。夷吾は守りきれず、盟を結んで去った。狄へ亡命しようとしたが、郤芮が「後から出て同じ所へ走るのは罪です。梁へ行くに如くはない。梁は秦に近く、秦に幸せられている」と言い、梁へ行った。
僖公九年(前651年)
- 秋九月、晉の獻公が卒した。里克と丕鄭は文公を入れようとし、三公子の徒党を使って乱を起こした。
- はじめ獻公は荀息を奚齊の傅とした。公は病んで召し、「この幼く頼りない孤児を大夫に託す。どうするか」と言った。稽首して「臣は股肱の力を尽くし、忠貞を加えます。事が成るのは君の霊によります。成らねば死をもって続けます」と答えた。公が「忠貞とは何か」と問うと、「公家の利になることは知る限り行うのが忠、逝く者を送り生きる者に仕え、双方に猜疑を持たせぬのが貞です」と答えた。
- 里克が奚齊を殺そうとしたとき、先に荀息に告げて「三つの怨みが起ころうとしており、秦と晉がそれを助ける。あなたはどうされる」と言った。荀息は「死ぬまでだ」と答えた。里克が「益はない」と言うと、荀叔は「私は先君と約した。二心を持てぬ。言を果たそうとしながら身を惜しめようか。益がなくとも、どうして避けられよう。しかも人が善を望むのは誰も私と同じだ。私が二心を持たぬことを望みながら、人にはよいと言えようか」と答えた。
- 冬十月、里克が奚齊を仮宮で殺した。経に「その君の子を殺す」と書いたのは、まだ葬られていなかったからである。荀息は死のうとしたが、人が「卓子を立てて輔けるに如くはない」と言った。荀息は公子卓を立てて葬儀を行った。十一月、里克が公子卓を朝廷で殺し、荀息は死んだ。君子は「詩にいう『白圭の欠けは磨けるが、この言の欠けはどうしようもない』。荀息にはそれがある」と評した。
- 晉の郤芮は夷吾に秦へ重い賄賂を贈らせて入国を求め、「実際に国を持つのは他人だ。私が何を惜しもう。入って民を得られれば、土地など何でもない」と言った。夷吾はこれに従った。齊の隰朋が軍を率い、秦軍と会して晉の惠公を入れた。
- 秦伯が郤芮に「公子は誰を頼りにしているか」と問うと、「臣は聞いております、亡命者に党はなく、党があれば必ず仇があると。夷吾は幼いころ遊びを好まず、争っても度を過ぎず、長じても改まりません。その他は存じません」と答えた。公が公孫枝に「夷吾は落ち着くだろうか」と問うと、「臣は聞いております、法則があってこそ国は定まると。詩に『識らず知らず、帝の則に順う』とあるのは文王のこと、また『僭らず賊わず、則とならぬは稀なり』とあるのは、好悪に偏らず忌み克たぬことをいいます。いまその言葉には忌み克つところが多い。難しいでしょう」と答えた。公は「忌めば怨みが多い。どうして勝てよう。それは我らの利だ」と言った。
僖公十年(前650年)
- 夏四月、周公忌父と王子黨が齊の隰朋と会して晉侯を立てた。
- 晉侯は里克を殺して釈明した。殺すにあたり、公は使者に「あなたがいなければここまで来られなかった。とはいえ、あなたは二君と一大夫を弑した。あなたの君となるのは難しいのではないか」と言わせた。里克は「廃する者がいなければ、君はどうして興れましょう。罪を着せようとするなら、言葉に事欠きますまい。臣は命を承りました」と答え、剣に伏して死んだ。このとき丕鄭は秦に聘問し、あわせて賄賂の遅れを詫びていたので免れた。
- 晉侯が共太子(申生)を改葬した。秋、狐突が下国へ行って太子に出会った。太子は狐突を車に乗せて御させ、「夷吾は無礼である。私は帝に願いを聞き届けられた。晉を秦に与えるつもりだ。秦が私を祀るであろう」と言った。狐突は「臣は聞いております、神は同類でない者の供物を歆けず、民は同族でない者を祀らぬと。君の祀は絶えてしまうのではありませんか。しかも民に何の罪がありましょう。刑を誤り祀を絶やすことになります。君はお考えください」と答えた。太子は「よかろう。もう一度願おう。七日後、新城の西の端に巫者が現れ、そこで私に会えよう」と言った。承知すると姿が消えた。その日に行くと、「帝は罪ある者を罰することを許された。韓で敗れよう」と告げた。
- 丕鄭は秦へ行ったとき秦伯に「呂甥・郤稱・冀芮がまことに従いません。重い贈物で呼び寄せてください。臣が晉君を追い出しますから、君は重耳を入れられよ。成らぬことはありません」と言った。
- 冬、秦伯は泠至を遣わして返礼の聘問をし、あわせて三人を召した。郤芮は「幣が重く言葉が甘い。我らを誘っているのだ」と言い、そのまま丕鄭・祁舉および七輿大夫の左行共華・右行賈華・叔堅・騅歂・纍虎・特宮・山祁を殺した。みな里克・丕鄭の一党である。丕豹は秦へ亡命し、秦伯に「晉侯は大いなる主に背いて小さな怨みを忌んでおります。民は与しません。討てば必ず追い出せます」と言った。公は「衆を失っているのに、どうして人を殺せよう。禍を避けている者が、どうして君を追い出せよう」と言った。
僖公十一年(前649年)
- 春、晉侯が丕鄭の乱のことを告げてきた。
- 天王が召武公と内史過を遣わして晉侯に命を賜った。晉侯は玉を受けるのに怠慢であった。過は帰って王に告げた。「晉侯には後嗣がないでしょう。王が命を賜ったのに瑞玉を受けるのに怠慢であった。自ら棄てているのです。どうして継ぐものがありましょう。礼は国の幹、敬は礼の車です。敬まなければ礼は行われず、礼が行われなければ上下が昏み、どうして代を長らえましょう」。
僖公十三年(前647年)
- 冬、晉が重なる飢饉に見舞われ、秦に穀物の融通を乞うた。秦伯が子桑に「与えるべきか」と問うと、「重ねて施して報いてくるなら、君は何を求めましょう。重ねて施して報いてこなければ、その民が必ず離れる。離れてから討てば、衆がなく必ず敗れます」と答えた。百里に問うと、「天災は流行し、国家に代わる代わる起こるもの。災を救い隣を憐れむのは道です。道を行えば福があります」と答えた。丕鄭の子の豹が秦にいて討伐を請うたが、秦伯は「その君は憎いが、その民に何の罪があろう」と言った。秦はそこで晉へ粟を送り、雍から絳まで舟が連なった。これを「汎舟の役」と名づけた。
僖公十四年(前646年)
- 秋八月辛卯、沙鹿が崩れた。晉の卜偃は「一年のうちに大きな咎があり、国が滅びかけよう」と言った。
- 冬、秦が飢えて晉に穀物の融通を乞うたが、晉人は与えなかった。慶鄭は「施しに背くのは親しみを失い、災を喜ぶのは不仁、貪って惜しむのは不祥、隣を怒らせるのは不義です。四つの徳をみな失って、何をもって国を守りましょう」と言った。虢射は「皮がなければ毛はどこに付くのか」と言った。慶鄭が「信を棄て隣に背けば、患いを誰が憐れみましょう。信がなければ患いが起こり、援けを失って必ず斃れます。まさにその通りになります」と言うと、虢射は「怨みは減らず敵を厚くするだけだ。与えぬに如くはない」と言った。慶鄭は「施しに背き災を喜ぶのは民の棄てるところです。近しい者でさえ仇とするのに、まして怨む敵は」と言ったが、聴かれず、退いて「君はこれを悔やまれよう」と言った。
僖公十五年(前645年)
- 晉侯が入国したとき、秦の穆姫は賈君を託し、あわせて「群公子をことごとく帰国させよ」と言った。ところが晉侯は賈君と通じ、群公子も帰国させなかったので、穆姫は怨んだ。晉侯は中大夫に賄賂を約したが後にみな反故にし、秦伯には河外の五城、東は虢略、南は華山、内は解梁城まで贈ると約したが、これも与えなかった。晉が飢えると秦は粟を送ったが、秦が飢えると晉は融通を閉ざした。それで秦伯は晉を討った。
- 卜徒父が筮すると吉と出た。「河を渡り、侯の車が敗れる」と出たので問い詰めると、「大吉です。三度敗れて必ず晉君を捕らえます。その卦は蠱に遇い、『千乗が三度去り、三度去った残りにその雄狐を得る』とあります。狐蠱は必ずその君でしょう。蠱の貞は風、悔は山。季節は秋。我らがその実を落としてその材を取るので勝てるのです。実が落ち材が失われて、敗れずに何を待ちましょう」と答えた。三度敗れて韓に至った。
- 晉侯が慶鄭に「寇が深く入った。どうするか」と問うと、「君がまことに深く入れられたのです。どうしようもありません」と答えた。公は「無礼だ」と言った。右に立つ者を卜すると慶鄭が吉と出たが用いず、步揚が戎車を御し、家僕徒が右に立ち、小駟に乗った。鄭から入った馬である。
- 慶鄭は「古は大事には必ず自国産の馬に乗りました。その水土に生まれてその人の心を知り、その教えに安んじてその道に馴れているので、どこへ導いても意のままにならぬことがない。いま異国産の馬に乗って戦に臨めば、懼れて変わり、人と食い違い、乱れた気が荒れ狂い、内では血が全身に巡り、脈が張って怒張し、外は強く見えても中は乾く。進退もできず旋回もできません。君は必ず悔やまれます」と言ったが、聴かれなかった。
- 九月、晉侯は秦軍を迎え撃ち、韓簡に敵情を見させた。復命して「軍は我らより少ないが、闘士は倍です」と言った。公が理由を問うと、「出るときはその資を借り、入るときはその寵に頼り、飢えてはその粟を食べた。三度施されて報いていないので来たのです。いままた撃てば、我らは怠り秦は奮い立つ。倍でもまだ足りません」と答えた。公は「一人の男でも侮ってはならぬ。まして国は」と言い、そのまま戦いを請うて「寡人は不才にして、その衆を合わせられても離すことはできません。君が引き返されぬなら、命から逃れる所はありません」と言わせた。秦伯は公孫枝に「君がまだ入国されぬ前、寡人はそれを懼れました。入られてもまだ列が定まらぬのは、なお私の憂いです。列が定まったなら、あえて命を承らぬわけがありません」と答えさせた。韓簡は退いて「私は幸いにも囚われで済むだろう」と言った。
- 壬戌、韓原で戦った。晉の戎馬が旋回して泥にはまり止まった。公が慶鄭を呼ぶと、慶鄭は「諫めに逆らい卜に背き、もとより敗れることを求められた。どうして逃れられましょう」と言って去った。梁由靡が韓簡の車を御し、虢射が右に立って秦伯に迫り、捕らえようとしたが、鄭が公を救おうとして誤らせ、そのまま秦伯を取り逃がした。秦は晉侯を捕らえて帰った。
- 晉の大夫は髪を乱し草を敷いて従った。秦伯は使者に「あなた方はなぜそう悲しむのか。寡人が君に従って西へ行くのは、晉の妖しい夢を踏むだけのこと。あえてそれ以上のことはせぬ」と言わせた。晉の大夫は三たび拝して稽首し、「君は后土を履み皇天を戴かれる。皇天と后土はまことに君の言葉を聞きました。群臣はあえて下風に控えます」と言った。
- 穆姫は晉侯が来ると聞き、太子罃・弘と娘の簡璧を連れて臺に登り、薪の上に立ち、喪服の使者を遣わして迎えさせ、こう告げた。「上天が災を降し、我らの二君が玉帛でなく干戈で相見えることとなりました。もし晉君が朝に入れば婢子は夕に死に、夕に入れば朝に死にます。君のご裁断を」。そこで晉侯を靈臺に置いた。
- 大夫が都へ連れ込むことを請うと、公は「晉侯を得て手厚く帰るはずが、喪を持ち帰っては何になろう。大夫に何の得がある。しかも晉人は悲しみ憂えて我らを重んじさせ、天地をもって我らに迫っている。晉の憂いを図らねばその怒りを重くする。我が言を食めば天地に背く。重い怒りは担いがたく、天に背くのは不祥である。必ず晉君を帰す」と言った。公子縶は「殺すに如くはない。悪を集めさせぬために」と言ったが、子桑は「帰してその太子を人質に取れば、必ず大きな和を得られます。晉はまだ滅ぼせませんし、その君を殺せばただ悪を成すだけです。しかも史佚の言に『禍を始めるな、乱を頼むな、怒りを重ねるな。重い怒りは担いがたく、人を陵ぐのは不祥である』とあります」と言い、そこで晉との和を許した。
- 晉侯は郤乞を遣わして瑕呂飴甥に告げ、あわせて召した。子金(呂甥)は言葉を教えた。「国人を朝に集め、君命として賞を与え、こう告げよ。『孤は帰るが社稷を辱めた。次に圉を立てることを卜せ』」。衆はみな哭した。晉はここで爰田を作った。
- 呂甥は「君は自らの亡命を憂えず群臣を憂えておられる。恵みの極みだ。君をどうしようか」と言った。衆が「どうすればよいか」と問うと、「賦を取り武具を修めて孺子を輔けよ。諸侯はそれを聞いて『君を失っても君があり、群臣が睦まじく、甲兵はいよいよ多い』と思う。我らを好む者は励まされ、我らを憎む者は懼れる。少しは益があろう」と答えた。衆は喜び、晉はここで州兵を作った。
- はじめ晉の獻公が伯姫を秦へ嫁がせることを筮すると、歸妹の睽に変ずるのを得た。史蘇が占って言った。「不吉です。その繇に『士が羊を割いても血が出ず、女が筐を捧げても賜物がない。西隣の責める言葉は償えぬ。歸妹の睽は助けがない』とあります。震が離に変じ、離もまた震に変ずる。雷となり火となり、嬴が姫を敗る。車はその輹を外し、火はその旗を焼く。師を行うに利あらず、宗丘で敗れる。歸妹睽孤、寇がその弧を張る。姪はその姑に従い、六年でその国へ逃げ帰り、その家を棄てる。翌年に高梁の墟で死ぬ」。惠公が秦にいたとき、「先君が史蘇の占に従っていれば、私はここまで来なかった」と言った。韓簡が侍していて「亀は象、筮は数です。物が生まれてから象があり、象があってから殖え、殖えてから数がある。先君の敗徳を数えられましょうか。史蘇のこの占は、従わずとも何の益がありましょう。詩に『下民の孽は天より降るにあらず。集まって諂い背いて憎むのは、まさに人による』とあります」と言った。
- 十月、晉の陰飴甥が秦伯と王城で会して盟った。秦伯が「晉国は和しているか」と問うと、「和しておりません。小人は君を失ったことを恥じ、親を喪ったことを悼み、賦を取り武具を修めて圉を立てるのを厭わず、『必ず仇に報いる。むしろ戎狄に仕える』と言います。君子は君を愛しその罪を知り、賦を取り武具を修めて秦の命を待つのを厭わず、『必ず徳に報いる。死んでも二心はない』と言います。これで和しておりません」と答えた。
- 秦伯が「国は君のことをどう言っているか」と問うと、「小人は悲しんで免れまいと言い、君子は恕して必ず帰されると言います。小人は『我らは秦を害した。秦がどうして君を帰そう』と言い、君子は『我らは罪を知った。秦は必ず君を帰す』と言う。二心あれば捕らえ、服せば放つ。これ以上厚い徳はなく、これ以上威ある刑はありません。服する者は徳に懐き、二心ある者は刑を畏れる。この一役で秦は覇となれましょう。入れておいて定めず、廃しておいて立てず、徳を怨みに変えるようなことを、秦はなさいますまい」と答えた。秦伯は「それが私の心だ」と言い、晉侯の館を改め、七牢を饋った。
- 蛾析が慶鄭に「去られてはどうか」と言うと、「君を敗戦に陥れ、敗れて死なず、そのうえ刑を失わせるのは人臣ではない。臣でありながら臣たらぬ者が、行ってどこへ入れよう」と答えた。十一月、晉侯が帰り、丁丑、慶鄭を殺してから入城した。
- この年、晉はまた飢えた。秦伯はまた粟を贈り、「私はその君を怨むがその民を憐れむ。しかも私は聞いている、唐叔が封じられたとき箕子が『その後は必ず大きくなる』と言ったと。晉をどうして望めよう。しばらく徳を植えて能ある者を待とう」と言った。ここで秦は初めて晉の河東を治め、官司を置いた。
僖公十七年(前643年)
- 夏、晉の太子圉が秦の人質となり、秦は河東を返してその娘を娶らせた。
- 惠公が梁にいたころ、梁伯は娘を娶らせた。梁嬴は身ごもって時期を過ぎた。卜招父とその子が卜し、その子は「男一人女一人が生まれます」と言った。招は「その通り。男は人の臣となり、女は人の妾となる」と言った。だから男を圉、女を妾と名づけた。子圉が西の人質となると、妾は宮仕えの女となった。
僖公二十二年(前638年)
- 秋、晉の太子圉が秦の人質となっていたが、逃げ帰ろうとして嬴氏に「あなたと帰ろうか」と言った。嬴氏は「あなたは晉の太子でありながら秦で辱められています。帰りたいと思われるのも当然です。しかし寡君が婢子に手巾と櫛を執って侍らせたのは、あなたを繋ぎ止めるためです。あなたに従って帰れば君命を棄てることになる。あえて従わず、あえて口外もいたしません」と答えた。そのまま逃げ帰った。
僖公二十三年(前637年)
- 九月、晉の惠公が卒した。懷公は亡命者に従うことを禁じ、期日を定めて期日までに帰らぬ者は赦さぬとした。狐突の子である毛と偃は重耳に従って秦におり、召さなかった。
- 冬、懷公は狐突を捕らえて「子が来れば免ずる」と言った。狐突は答えた。「子が仕えられるようになれば父は忠を教えるのが古の制です。名を策に記し質を委ねてから二心を抱くのは罪です。いま臣の子の名が重耳のもとにあって数年になります。それをまた召せば二心を教えることになる。父が子に二心を教えて、何をもって君に仕えましょう。刑が濫りでないのは君の明であり、臣の願いです。刑を淫らにして意を遂げるなら、誰に罪がないでしょう。臣は命を承りました」。そこで殺した。
- 卜偃は病と称して出仕せず、「周書に『大いに明らかにしてこそ服する』とある。自らが明らかでないのに人を殺して意を遂げては、難しいのではないか。民は徳を見ず、ただ戮のことばかり聞く。どうして後があろう」と言った。
史論(士竒)
- 虞と虢は唇歯のように相依り、晉の南境に迫っていた。晉の獻公は執念深く欲が広く、諸侯を呑み狡猾に territory を開く志があり、南への進出を片時も忘れなかった。
- 虢公は荒れて虐げ、神主を顧みず淫らな鬼に福を求め、しばしば狄を破ってその武功を誇り、晉が自分を寝床にしようとしていることを慮らなかった。天がその鑑を奪ったのである。
- 虞公は璧と馬を貪って遠い謀りを忘れ、忠言を棄てて顧みず、豺狼に会釈して奥座敷へ通し、そのうえ先駆けまで務めた。一度で済まさず二度も行い、軽々しく隣国との交わりを棄て、ついにともに斃れた。君子は道を借りた一件を見て、晉人の狡さを憎み虞公の愚かさを笑い、利が人の国家をこれほど敗るのかと嘆かずにはいられない。
- 獻公は内に公族を平らげ、外に虞・虢・翟柤・耿・霍・魏を次々に破り、耿を趙夙に賜り魏を畢萬に賜って、すでに三家が晉を分ける兆しを開いた。驪戎に勝ってその美姫を捕らえ、心を快くして志を得ると、史蘇に罰の杯を挙げてその言に験がないと言った。しかし女戎の禍がすでにその間に芽生えていることを知らなかった。禍福の倚伏の機は甚だ畏るべきである。
- 獻公は齊姜と通じ、同姓の国を滅ぼし先祖の裔を絶やした。倫に逆らい理を害したのだから、家の禍があって当然である。閨房の言に溺れ帷房の愛に引かれ、申生・重耳・夷吾を辺鄙へ遠ざけ、ただ妖姫姉妹の生んだ者だけを崇め寵した。天がその鑑を奪って積悪の罰を下そうとしたのであろう。そうでなければ、士蒍・里克の忠諫が、どうして二五と驪姫一人に敵わなかったのか。
- 臯落へ命が下された日、雑色の服と玦の離、申生が立てられぬことは愚者にも智者にも分かっていた。諸大夫が心配して謀った中で、梁餘子養の「死んで不孝となるくらいなら逃げるに如くはない」の言が最も果断であり、罕夷の「背くに如くはない」も同じ見識、士蒍の呉の太伯となれという策も、いずれも人の骨肉の際をよく処するものである。
- 申生は仁柔で決断に乏しく、恭しく慎むことは十分でも智慮が足りず、小杖・大杖の義に暗く、さっぱりと身を退くことができなかった。軍を率いて敵を破り、功が高まるほど忌みが深くなり、宗邑に留まるほど跡が疑わしくなって謗りが起こった。
- 申生の「天下にどうして父のない国があろう」という言葉は、逃げれば父の悪が明らかになるというにすぎない。しかし死んで孝を尽くせば父に子を殺した名が残り、父を悪に陥れることのほうがはるかに大きいと知らなかった。株を守って斧鑕を待ち、ついに新城で死んだのは、泉鳩里と同じ痛ましさである。ああ、人の子でありながら春秋を知らねば不孝の名を蒙る。申生のような者は、命を守り時に恭しかったとはいえるが、権を心得たとはいえない。
- 里克もまた共世子の傅であった。主孟の饗応の誘いに乗り、鳥烏の説に動かされ、中立して免れることを願った。それで世子を殺す計が決した。荀息は奚齊・卓子のために死んだのに、克は苟且に身を全うした。杜原欵に対しても恥じるべきである。文公を立てようとしたのは主を択んで仕えたといえるが、夷吾は賄賂で国を得ながら里克が自分に与しなかったのを怨んで殺した。それは非である。ただ惜しむらくは、克が早く申生に殉じて死ななかったことである。
- 秦の穆公は重耳の仁を知りながら、「不仁な者を置いてその中を乱す」という邪説に惑わされ、重耳を措いて夷吾を立てた。王と覇の分かれ目はまさにここにある。
- 夷吾は施しに背き徳に仇し、ついに韓原の妖夢を踏んだ。秦はまた帰し、その凶作を憐れんでまた粟を送った。その義もまた厚い。ただ河外の列城を取り、君を立てることを義挙としながら利を市ったのは、輝かしさに欠ける。
- 懷公が継いでまた狐突を殺した。突が死んだのはその子が重耳に従っていたからである。それで天下の臣子たる者に何を教えるのか。これほど昏悖なのだから、代を長らえられぬのも当然である。伝が「惠公・懷公には親しむ者がなく、内外が棄てた」というのは、まさにそれである。ああ、これこそ天が文公を資けた所以であろう。