左傳紀事本末魯の陪臣が相次いで叛く(南蒯・侯犯)(陽虎・公孫宿)(魯陪臣交叛(南蒯/侯犯) (陽虎上下/公孫宿))

三桓が固めた都邑に拠って、その家臣(陪臣)が次々と叛いた四つの事件を集めた篇。襄公七年(前566年)の費の築城から哀公十五年(前480年)まで。季氏では費の南蒯と公山不狃、叔孫氏では郈の侯犯、孟氏では成の公孫宿が叛き、いずれも内応や仲尼の謀によって鎮められた。中でも陽虎は季桓子を捕らえて政柄を握り、三桓を除こうとして蒲圃で敗れ、宝玉と大弓を持って出奔し、齊・宋を経て晉の趙氏に身を寄せた。史論は、公室を削った三桓が同じ手口で家臣に脅かされたことを天道の返報として説く。

年表(13件)

襄公七年(前566年)

  • 南遺が費の宰となり、叔仲昭伯が隧正となった。昭伯は季氏に取り入ろうとして南遺に媚び、「費に城を築くよう請われよ。私が人夫を多く出そう」と言った。それで季氏は費に城を築いた。

昭公十二年(前530年)

  • 季平子が立って南蒯を礼遇しなかった。南蒯は子仲に「私が季氏を追い出してその家財を公に返そう。あなたは位を上げられ、私は費をもって公の臣となる」と持ちかけ、子仲は承知した。南蒯は叔仲穆子にも語り、事情を告げた。
  • 季悼子が卒したとき、叔孫昭子は再命の卿であった。平子が莒を討って勝つと三命を受け直した。叔仲子は両家を争わせようとして平子に「三命は父兄を越えるもので礼に反します」と言った。平子が「その通りだ」と言って昭子に伝えさせると、昭子は「叔孫氏には家の禍があり、嫡を殺して庶を立てた。だから婼はここに至った。禍に乗じて私を斃そうというなら承知した。だが君命を廃さぬなら、もとより定まった序列がある」と答えた。
  • 昭子は朝廷に出て吏に「婼は季氏と訴訟する。記録は偏らぬようにせよ」と命じた。季孫は懼れて罪を叔仲子に帰した。それで叔仲小・南蒯・公子憗が季氏を除くことを謀った。憗は昭公に告げ、そのまま昭公に従って晉へ行った。南蒯は成らぬことを懼れ、費をもって叛いた。子仲は帰路、衞で乱を聞き、介の者を捨てて先を急ぎ、郊に至って費の叛乱を聞くと、そのまま齊へ亡命した。
  • 南蒯が叛こうとしたとき、同郷の者でそれを知る者があり、通りかかって嘆いて言った。「痛ましい、寂しい、頼りない。深く思うが謀は浅い。身は近くにあるが志は遠い。家臣でありながら君主の座を図る。人もいたものだ」。
  • 南蒯は事を明示せずに筮を立て、坤の比に変ずるのを得て「黄裳、元吉」と出たので大吉と考え、子服惠伯に示して「事を起こしたいのだが、どうか」と問うた。惠伯は答えた。「私もこれを学んだことがある。忠信の事ならよいが、そうでなければ必ず敗れる。外に強く内に温かなのが忠、和して貞を率いるのが信である。だから『黄裳元吉』という。黄は中央の色、裳は下の飾り、元は善の長である。中が忠でなければその色を得ず、下が恭しくなければその飾りを得ず、事が善でなければその極みを得ない。外内が唱和するのが忠、事を率いるに信をもってするのが恭、この三徳を供養するのが善である。この三つでなければ当たらない。しかも易は危険なことを占うものではない。何をなさろうというのか。しかも飾れるのか。中が美しければ黄となり、上が美しければ元となり、下が美しければ裳となる。三つが揃ってはじめて筮に当たるが、それでもなお欠けがある。筮が吉と出ても、まだ足りぬ」。
  • 費へ行こうとして郷人に酒を振る舞うと、ある者が歌った。「我に圃あり、そこに杞が生える。我に従う者は子か、我を去る者は鄙か。隣に背く者は恥か。やめよ、やめよ、我が党の士ではない」。
  • 平子が昭子に叔仲小を追放させようとした。小はこれを聞いて朝廷に出ようとしなかったが、昭子は吏に「小は朝廷で処分を待て」と伝えさせ、「私は怨みの集まる場所にはならぬ」と言った。

昭公十三年(前529年)

  • 春、叔弓が費を囲んだが落とせず敗れた。平子は怒り、費の人を見つけたら捕らえて捕虜とせよと命じた。冶區夫は言った。「それはいけません。費の人を見たら、寒がっていれば衣を与え、飢えていれば食を与え、良い主となって困窮を補えば、費の人は帰るように来るでしょう。南氏は滅び、民は叛きます。誰と邑を守れましょう。もし威で脅し怒りで懼れさせれば、民は苦しんで叛き、かえって彼のために集まる。もし諸侯がみなそうすれば、費の人は帰る所がなく、南氏に親しまずとも、どこへ行けましょう」。平子はこれに従い、費の人は南氏に叛いた。

昭公十四年(前528年)

  • 南蒯が叛こうとしたとき費の人に盟わせたが、司徒の老祁と慮癸は病んだふりをして「臣は盟を受けたいが病が出た。君の霊で死なずに済むなら、快方を待って盟いたい」と願い出た。二人は民が叛きたがっているのに乗じ、衆を朝に集めて盟うことを請い、そのまま南蒯を脅して言った。「群臣は君を忘れず、あなたを畏れて今日まで三年、命に従ってきた。あなたが図られぬなら、費の人は君を思う気持ちを抑えられず、あなたを畏れられなくなる。あなたはどこでも思いを遂げられよう。お送りしたい」。五日の猶予を請い、そのまま齊へ亡命した。
  • 景公の酒宴に侍したとき、景公が「叛いた男よ」と言うと、「臣は公室を張ろうとしたのです」と答えた。子韓晳は「家臣でありながら公室を張ろうとする。これ以上の罪はない」と言った。
  • 司徒の老祁と慮癸が来て費を返し、齊侯は鮑文子を遣わして引き渡した。(以上、南蒯の叛乱)

定公五年(前505年)

  • 六月、季平子が東野を巡って帰る途中、まだ着かぬうちに丙申、房で卒した。陽虎は璵璠(宝玉)で斂しようとしたが、仲梁懐は「歩みを改めれば玉も改める」と言って渡さなかった。陽虎は追放しようとして公山不狃に告げたが、不狃は「彼は君のためにしているのだ。何を怨むのか」と言った。
  • 葬儀が済み、桓子が東野を巡って費に至ると、子洩(公山不狃)が費の宰として郊で出迎え労った。桓子は敬意を示したが、仲梁懐を労うと仲梁懐は敬意を示さなかった。子洩は怒り、陽虎に「やってしまえ」と言った。
  • 乙亥、陽虎は季桓子と公父文伯を捕らえ、仲梁懐を追放した。冬十月丁亥、公何藐を殺し、己丑、稷門の内で桓子と盟い、庚寅、大がかりな詛盟を行って公父歜と秦遄を追放した。二人は齊へ亡命した。

定公六年(前504年)

  • 春二月、定公が鄭を侵して匡を取った。晉のために、鄭が胥靡を攻めたことを討ったのである。往路で衞に道を借りず、帰路、陽虎は季孫・孟孫を南門から入らせ東門から出させ、豚澤に宿営した。衞侯は怒り、彌子瑕に追わせた。
  • 公叔文子は老いていたが、輦に乗って公のもとへ行き、言った。「人を咎めながらそれに倣うのは礼ではありません。昭公の難のとき、君は文の舒鼎、成の昭兆、定の鞶鑑をもって迎え入れることができ、そのいずれかを用いられればよかった。公子や臣下の子らも、諸侯が憂えるなら人質に出すつもりでした。これは群臣の聞いていることです。いま小さな忿りで旧徳を覆うのはよろしくないのでは。大姒の子では周公と康叔が最も睦まじかった。小人に倣ってそれを棄てるのは偽りではありませんか。天は陽虎の罪を重ねて斃そうとしている。君はしばらくお待ちください」。そこで取りやめた。
  • 夏、季桓子が晉へ行って鄭の捕虜を献じた。陽虎は無理に孟懿子を晉へ遣わし、夫人への幣に報いさせた。晉人は両者を一緒に饗応した。孟孫は房の外に立ち、范獻子に「陽虎が魯にいられなくなって晉に身を寄せたら、必ず中軍司馬にしてやってください。さもなくば先君に誓って許しません」と言った。獻子は「寡君には官があり、しかるべき人を用いる。鞅の知ったことではない」と答えた。獻子は簡子に「魯人は陽虎を患えている。孟孫はその隙を知り、必ず晉へ来ると見て、無理に取りなしを頼み、それで信を得ようとしたのだ」と言った。
  • 陽虎はまた定公と三桓を周社で盟わせ、国人を亳社で盟わせ、五父の衢で詛盟した。

定公七年(前503年)

  • 齊人が鄆と陽關を返し、陽虎はそこに居して政を執った。
  • 齊の國夏が魯を討った。陽虎は季桓子の車を御し、公歛處父が孟懿子の車を御して、夜に齊軍を襲おうとした。齊軍はこれを聞き、伏兵を退けて待ち構えた。處父は「虎は禍を図らず、必ず死ぬことになる」と言い、苫夷は「虎が二人の主を難に陥れるなら、有司を待たず私が必ずお前を殺す」と言った。虎は懼れて引き返し、敗れずに済んだ。

定公八年(前502年)

  • 春正月、定公が齊を侵し、陽州の門に迫った。兵はみな居並んで座り、「顔高の弓は六鈞だ」と言って皆で取って回し見た。陽州の人が出撃すると、顔高は人の弱い弓を奪った。籍丘子鉏が撃ちかかり、一人ともども倒れた。顔高は倒れたまま子鉏を射て頬に当て、絶命させた。顔息は敵を射て眉に当て、退いて「私に勇はない。目を狙ったのだ」と言った。軍が退くとき、冉猛は足を傷めたふりをして先に退いたが、兄の會が「猛よ、殿を務めよ」と呼んだ。
  • 定公が齊を侵して廩丘の外郭を攻めた。守る側が衝車を焼くと、ある者が馬の毛布を濡らして火を消し、外郭を毀った。守る側が出撃してきたので魯軍は逃げた。陽虎は冉猛が見えないふりをして「猛がここにいれば必ず敗れはしない」と言った。猛は追撃したが、振り返ると続く者がなく、倒れたふりをした。虎は「すべて客気だ」と言った。
  • 苫越に子が生まれたが、戦役の結果を待って名づけようとし、陽州の役で捕虜を得たので「陽州」と名づけた。
  • 季寤・公鉏極・公山不狃はいずれも季氏で志を得ず、叔孫輒は叔孫氏に寵がなく、叔仲志は魯で志を得なかった。この五人が陽虎に頼り、陽虎は三桓を除いて、季寤を季氏に、叔孫輒を叔孫氏に代え、自分が孟氏に代わろうとした。
  • 冬十月、先公の祀を順序通りに改めて祈り、辛卯、僖公の禘祭を行った。壬辰、蒲圃で季氏を饗応して殺す手はずとし、都の兵車に「癸巳に到着せよ」と命じた。成の宰である公歛處父が孟孫に「季氏が都の兵車に触れを出した。なぜか」と問うと、孟孫は「私は聞いていない」と答えた。處父は「では乱です。必ずあなたにも及ぶ。先に備えましょう」と言い、孟孫は壬辰を期日と定めた。
  • 陽虎が先駆し、林楚が桓子の車を御し、虞人が鈹と楯で挟み、陽越が殿を務めて蒲圃へ向かった。桓子は急に林楚に言った。「お前の先祖はみな季氏の良臣であった。お前もそれを継げ」。林楚は「臣が命を聞いたのは遅く、陽虎が政を執って魯国が服しております。逆らえば死を招くだけで、死んでも主の益になりません」と答えた。桓子は「何が遅いものか。私を孟氏のところへ連れて行けるか」と言った。林楚は「死を惜しみはしませんが、主を助けきれぬのが恐ろしい」と答え、桓子は「行け」と言った。
  • 孟氏は圉人の屈強な者三百人を選んで公期のために門外に部屋を建てさせていた。林楚は馬に鞭打ち、衢に出て駆けた。陽越が射たが当たらず、建築中の者が門を閉じ、門の隙間から射て陽越を殺した。
  • 陽虎は定公と武叔を脅して孟氏を討った。公歛處父が成の人を率いて上東門から入り、南門の内で陽氏と戦った。勝てず、さらに棘下で戦って陽氏が敗れた。陽虎は甲を脱いで公宮へ行き、宝玉と大弓を取って出、五父の衢に宿った。横になって食事をとっていると、その徒党が「追手が来ます」と言った。虎は「魯人は私が出たと聞いて、死を免れたことを喜んでいる。私を追う暇などない」と言った。従者が「ああ、早く車を出せ。公歛陽が来る」と言った。
  • 公歛陽(處父)は追撃を請うたが孟孫は許さなかった。陽が桓子を殺そうとすると、孟孫は懼れて桓子を帰した。子言(處父)は爵を季氏の廟に並べ置いて出た。陽虎は讙と陽關に立てこもって叛いた。

定公九年(前501年)

  • 夏、陽虎が宝玉と大弓を返した。経に「得」と書いたのは器用だからである。およそ器用を手に入れるのを「得」といい、手に入れて用いるのを「獲」という。
  • 六月、陽關を討った。陽虎は萊門を焼かせ、軍が動揺した隙に突破して齊へ亡命した。齊に軍を請うて魯を討とうとし、「三度攻めれば必ず取れます」と言った。齊侯が許そうとすると、鮑文子が諫めた。「臣はかつて施氏の家臣でありました。魯はまだ取れません。上下はなお和し、民衆はなお睦まじく、大国に仕えて天災もない。どうして取れましょう。陽虎は齊の軍を疲れさせようとしているのです。齊軍が疲れ大臣が多く死ねば、そこで詐謀を働くつもりです。陽虎は季氏に寵愛されながら季孫を殺そうとし、魯国を害して自分の居場所を求めた。富に親しんで仁に親しまぬ者を、君はどうして用いられます。君は季氏より富み、魯国より大きい。まさに陽虎が覆したい相手です。魯がその病を免れたのに君が拾われては、害となりませんか」。
  • 齊侯は陽虎を捕らえ、東へ送ろうとした。陽虎が東を願ったので、西の辺境に囚えた。陽虎は邑人の車をすべて借り、車軸に刻みを入れて麻で縛って返し、葱靈(幌車)に乗って中で寝たまま逃げた。追って捕らえ、齊に囚えたが、また葱靈で逃げて宋へ走り、さらに晉へ亡命して趙氏に身を寄せた。仲尼は「趙氏は代々乱があるだろう」と言った。

定公十年(前500年)

  • はじめ叔孫成子が武叔を立てようとしたとき、公若藐が強く諫めて「なりません」と言った。成子は立てて卒した。公南が刺客に射させたが殺せなかった。公南は馬正となり、公若を郈の宰にした。
  • 武叔は地位が定まると、郈の馬正である侯犯に公若を殺させようとしたができなかった。その圉人が「私が剣を持って朝を通れば、公若は必ず『誰の剣か』と言うでしょう。あなたの名を挙げて告げれば必ず見たがる。私が愚かなふりをして切先の方から渡せば殺せます」と言った。その通りにすると、公若は「私を呉王(闔閭の子)のようにする気か」と言い、そのまま殺された。
  • 侯犯は郈をもって叛いた。武叔と懿子が郈を囲んだが落とせず、秋、二人は齊軍とともに再び郈を囲んだが落とせなかった。叔孫が郈の工師である駟赤に「郈は叔孫氏の憂いであるだけでなく社稷の患いだ。どうしたものか」と問うと、駟赤は「臣の務めは揚水の卒章の四言にあります」と答え、叔孫は稽首した。
  • 駟赤は侯犯に「齊と魯の間にいて何もしないのはよくありません。齊に仕えて民に臨まれてはいかがか。さもなくば民が叛きます」と言い、侯犯は従った。齊の使者が来ると、駟赤は郈の人とともに郈中に噂を流した。「侯犯は郈を齊と交換しようとしている。齊人は郈の民を移すだろう」。人々は恐れた。
  • 駟赤は侯犯に「人々の言うことが変わりました。あなたは齊と交換されるがよい。死ぬくらいなら、同じ郈でも余裕が得られる。なぜここにこだわるのです。齊人はこれで魯を圧迫したいので、必ず倍の土地をくれましょう。しかも不慮に備えて、あなたの門に甲を多く置かれては」と言い、侯犯は「よかろう」と言って甲を多く置いた。
  • 侯犯が齊に交換を請い、齊の有司が郈を検分に来ようとした。駟赤は人を走らせて「齊軍が来たぞ」と叫ばせた。郈の人は大いに驚き、侯犯の門の甲を着けて侯犯を囲んだ。駟赤が射ようとすると侯犯は止め、「私が助かる方法を考えてくれ」と言った。侯犯が退去を請い、許された。
  • 駟赤が先に宿へ向かい、侯犯は殿を務めた。一つ門を出るごとに郈の人が閉じ、外郭の門で止めて「あなたは叔孫氏の甲を持って出ようとしている。有司が誅せば群臣は死を懼れる」と言った。駟赤は「叔孫氏の甲には印がある。私はまだ持ち出せない」と言った。犯が駟赤に「あなたは留まって数えて渡してくれ」と言い、駟赤は留まって魯人を入れた。侯犯は齊へ亡命し、齊人は郈を返した。
  • 武叔が齊を聘問した。齊侯は饗応して「叔孫よ、もし郈が君の他の国境にあったなら、寡人は関知しなかった。たまたま我が国と接していたので、あえて君の憂いを助けたのだ」と言った。武叔は「寡君の望むところではありません。君にお仕えするのは封疆と社稷のためです。それゆえ家臣ごときのことで君の執事を煩わせました。不埒な臣は天下の憎むところ。君はどうしてそれを寡君への賜物とされましょう」と答えた。

定公十二年(前498年)

  • 仲由が季氏の宰となり、三都の城壁を毀とうとした。そこで叔孫氏は郈を毀った。季氏が費を毀とうとすると、公山不狃と叔孫輒が費の人を率いて魯の都を襲った。定公と三家は季氏の宮に入り、武子の臺に登った。費の人が攻めたが落とせず、公の側まで迫った。仲尼が申句須と樂頎に命じて下って討たせると、費の人は敗走し、国人が追って姑蔑で破った。二人は齊へ亡命し、そのまま費を毀った。
  • 成を毀とうとすると、公歛處父が孟孫に言った。「成を毀てば齊人は必ず北門まで来ましょう。しかも成は孟氏の防塁です。成がなければ孟氏もない。あなたは知らぬふりをされよ。私は毀ちません」。冬十二月、定公が成を囲んだが落とせなかった。

哀公十四年(前481年)

  • はじめ孟孺子洩が成で馬を飼おうとしたが、成の宰である公孫宿が受け入れず、「孟孫が成を苦しめている。ここでは馬は飼えぬ」と言った。孺子は怒って成を襲ったが、従者が入れず引き返した。成の有司は孺子に鞭打たせた。
  • 秋八月辛丑、孟懿子が卒した。成の人が弔いに来たが入れず、袒免して衢で哭した。共に服することを願い出たが許されず、懼れて帰らなかった。

哀公十五年(前480年)

  • 春、成が齊に叛いて味方した。武伯が成を討ったが落とせず、そのまま輸に城を築いた。
  • 冬、齊と和睦した。子服景伯が齊へ行き、子贛が介を務めた。公孫成に会って言った。「人はみな人に臣従しながら背く心を持つ。まして齊人が、あなたのために働くとしても二心を持たぬはずがない。あなたは周公の子孫である。大きな利益を得てもなお不義を思うもの。利が得られぬうえに宗国を失っては、何の役に立とう」。成は「よい言葉だ。もっと早く聞かなかった」と言った。
  • 陳成子が客を館に迎え、「寡君が恒に告げさせております。寡人は君に仕えること、衞君に仕えるがごとくありたいと」と言った。景伯は子贛に会釈して進ませ、子贛は答えた。「寡君の願いです。昔、晉人が衞を討ったとき、齊は衞のために晉を討ち、冠氏で戦車五百を失いました。そこで衞に濟水以西、禚・媚・杏以南の書社五百を与えられた。呉人が我が国に乱を加えたとき、齊はその弱みに乗じて讙と闡を取り、寡君はそれで心を寒くしております。もし衞君と同じように君にお仕えできるなら、もとより願うところです」。成子はこれを気にし、成を返した。公孫宿はその兵甲を率いて嬴に入った。

史論(士竒)

  • 伝に「上に憎むものをもって下を使わず、下に憎むものをもって上に仕えず」とある。ゆえに順に事え恕に施すのは、物の情に適うためだけでなく、禍乱の源を塞ぎ、返ってくる兆しを慎むためでもある。
  • 魯の三桓は公室を削り、都城を固めて狡兎の窟とし、君と民を他家の食に依らせた。自ら計を得たと思っていたが、家臣がその後を狙って相次いだのは思いもよらなかった。父が兵を好めば子は必ず脅し取り、主が公に背こうとして臣が倣わぬはずがあろうか。
  • 経伝に載る昭公・定公・哀公以来、陪臣が邑に拠って叛いたのは四度。季氏で二度、孟孫と叔孫で各一度。南蒯、公山不狃と叔孫輒、侯犯、公孫宿である。これらは強い都に頼り隣国を恃んだにすぎず、しかも司徒の老祁・慮癸・駟赤が内応し、費と成については孔子が謀って子路・子貢が助けたので、たちまち叛いた者は逃げ散り、城郭は元通りとなった。その害はまだ甚だしくない。
  • ただ陽虎だけは梟雄の資質と不仁の性をもって魯国の中枢を握り、政柄を執った。桓子を囚えようと思えば囚え、三桓と盟おうと思えば盟い、気に入らぬ者を追おうと思えば追った。この時、魯人は雷電や鬼神のごとく犯しがたいものとして畏れた。敗れた後も公宮で甲を脱ぎ、宝玉と大弓を取って出、五父の衢に宿って悠然としており、誰も難を仕掛けられなかった。もし蒲圃の企てが成っていれば、一つの三桓を除いて別の三桓を得るだけで、公室の存亡すら分からなかった。私家の患いにとどまるものではない。
  • とはいえ季氏の強大さと民を多く取り込んだ不臣の跡は、孟孫や叔孫ほど甚だしくはなかったはずである。それでも費は二度叛き、さらに陽虎の跳梁が加わって、その宗家はほとんど滅びかけた。天道は必ず返る。人臣たる者は、下に憎むものをもって上に仕えてはならぬという戒めである。