左傳紀事本末王朝と魯の交わり(王朝交魯)

周王室と魯の間で交わされた聘問・錫命・賵喪・弔葬の記録を、隠公元年(前722年)から哀公十九年(前476年)まで年次順に集めた篇。王から魯への使者は宰咺・南季・毛伯衞・榮叔・召桓公・石尚と繰り返し下るのに、魯から周への述職はごく稀で、往来は文公・宣公以後いよいよ絶えていく。求車・求金のように礼に外れる需索や、崩御の日付の食い違いなど、周礼の乱れも併せて記される。

年表(27件)

隠公元年(前722年)

  • 秋七月、周王が宰咺を遣わし、惠公と仲子への賵(葬送の贈物)を届けた。時期が遅れたうえ、仲子はまだ死んでいなかったので、使者の名が記された。天子は死後七月で葬られ同軌の諸国がすべて集まり、諸侯は五月で同盟国が、大夫は三月で同位の者が、士は月をまたいで外姻が集まる。死者への贈物は遺体に間に合わせ、生者への弔問は哀しみの最中に届けるもので、凶事を前倒しで行うのは礼に反する。
  • 十二月、祭伯が来たが、王命による使いではなかった。

隠公三年(前720年)

  • 春三月壬戌、平王が崩じた。訃報が庚戌の日付で伝えられたので、経にはその日で記された。
  • 秋、武氏の子が来て葬儀の助成金を求めた。まだ王が葬られていない時期であった。

隠公六年(前717年)

  • 冬、周の都から飢饉の急を告げてきた。隠公は宋・衞・齊・鄭に穀物の融通を請うた。礼にかなった行いである。

隠公七年(前716年)

  • 戎が周に朝見して公卿に幣を贈ったが、凡伯は賓客として遇さなかった。冬、王が凡伯を魯への聘問に遣わすと、その帰路、戎が楚丘で襲い連れ去った。

隠公九年(前714年)

  • 天王が南季を遣わして魯を聘問した。

桓公四年(前708年)

  • 夏、周の宰である渠伯糾が聘問に来た。父が存命なので名を記した。

桓公五年(前707年)

  • 天王が仍叔の子を遣わして聘問させた。仍叔の子は年若かった。

桓公八年(前704年)

  • 冬、祭公が来て、そのまま紀へ赴き王后を迎えた。礼にかなう。

桓公九年(前703年)

  • 春、紀の季姜が京師へ嫁いだ。諸侯の女の輿入れは、王后となる場合だけ経に書かれる。

桓公十五年(前697年)

  • 春、天王が家父を遣わして車を求めた。礼に反する。諸侯は車服を貢がず、天子は私的に財を求めないものである。

莊公元年(前693年)

  • 秋、王姫のための館を城外に築いた。外部の者への礼としてである。
  • 王が榮叔を遣わして桓公に命を賜った。

莊公三年(前691年)

  • 夏五月、桓王を葬った。時期が遅れている。

莊公十一年(前683年)

  • 冬、齊侯が来て共姫を迎えた。

莊公二十三年(前671年)

  • 祭叔が聘問に来た。

僖公三十年(前630年)

  • 冬、王が周公閲を遣わして聘問させた。饗宴には昌歜・白黒(餅類)・形鹽が供されたが、周公閲は辞退して言った。「国君が文において人を照らし、武において人を畏れさせてこそ、その徳をかたどる備物の饗があり、五味を薦め嘉穀を供し、虎の形の塩でその功を表すのだ。自分にはとても堪えられない」と。
  • 東門襄仲が周へ聘問に赴くにあたり、まず晉への聘問を先に行った。

文公元年(前626年)

  • 春、王が内史叔服を遣わして葬儀に参列させた。
  • 夏四月丁巳、僖公を葬った。
  • 王が毛伯衞を遣わして文公に命を賜り、叔孫得臣が周へ赴いて謝礼した。

文公五年(前622年)

  • 春、王が榮叔を遣わして含(口に含ませる玉)と賵を贈り、召昭公を葬儀に参列させた。礼にかなう。

文公八年(前619年)

  • 秋、襄王が崩じた。
  • 冬、穆伯が周へ赴いて弔問した。

文公九年(前618年)

  • 春、毛伯衞が来て金を求めた。礼に反する。王命と書かないのは、まだ王が葬られていないからである。
  • 二月、莊叔が周へ赴いて襄王の葬儀に列した。

文公十年(前617年)

  • 秋七月、蘇子と女栗で盟を結んだ。頃王が即位したためである。

宣公九年(前600年)

  • 春、王が使者を遣わして聘問を求めた。
  • 夏、孟獻子が周を聘問した。王は礼にかなうとして手厚く贈物をした。

宣公十年(前599年)

  • 秋、劉康公が来て返礼の聘問をした。

成公五年(前586年)

  • 十一月己酉、定王が崩じた。

成公八年(前583年)

  • 秋七月、召桓公が来て成公に命を賜った。

襄公二十八年(前545年)

  • 冬十一月癸巳、天王が崩じた。訃報が届かなかったので経にも書かれない。礼にかなう扱いである。
  • 十二月、王の使者が喪を告げてきた。崩御の日を問うと甲寅と答えたので、その日で記し、誤りを示した。

定公十四年(前496年)

  • 天王が石尚を遣わして脤(祭肉)を届けた。

哀公十九年(前476年)

  • 冬、叔青が京師へ赴いた。敬王が崩じたためである。

史論(士竒)

  • 周公は両朝を輔佐して王室に大功があり、伯禽は魯に封じられて土田・附庸を諸姫の倍与えられ、望国と称された。王后・王女の輿入れも魯が取り仕切った。周にとって最も近しいのは魯であり、魯が翼戴すべきは周であった。
  • ところが十二公二百四十年の間、王朝から魯への聘問は七度、錫命は三度、脤を贈ったのは一度、賵喪は四度あったのに、魯から周へ述職に赴いたのは僖公の二度と、成公が伐秦のついでに京師へ行った一度だけである。齊や晉に仕えた礼の万分の一にも及ばない怠慢ぶりだ。
  • 戦国期でさえ齊の威王が一度周に朝しただけで天下がこれを賢としたほどで、春秋期にはなお共主を臣事する意識が人心に残っていた。魯が諸姫を率いて聘覲の礼を修めていれば、王室の重みは九鼎に劣らなかったであろう。春秋が王礼の手厚さを記すのは、魯侯の怠慢を際立たせるためである。
  • とはいえ魯にのみ罪があるのではない。刑賞は王者が天下を御する大権であり、賞が僭れば人は服さず、刑が濫れば人は懼れない。平王の東遷以来、周が最初に恩を加えたのは仲子と弑逆の桓公であり、不朝の諸侯に貶爵削地の罰を加えることもなかった。魯庭に下った使者たちも、私的な結託か際限のない需索ばかりであった。
  • 仲子の名分を正し寪氏の事件を問責していれば、三綱九法の名義が明らかとなり、魯は震え上がって、徴聘を待たずに周京へ列を成したはずである。ゆえに魯に罪はあるが周もまた正しくなかった、というのである。
  • 隠公から僖公までは周魯の往来がまだ数えられるが、文公・宣公以後はいよいよ稀となる。三家が次第に強くなって魯を専制し、公すら眼中にない者が王を意識するはずもない。聘問は減り王礼も倦み、上下の交わりはここで絶えたのである。