梁書卷五十二 列傳第四十六 陶季直

陶季直は丹陽秣陵の人。幼くして聡明で、祖父から譲られた銀を辞退するなど謙譲の逸話で知られた。齊に仕え尚書比部郎などを歴任して清廉な吏節で称えられたが、明帝の忌避により辺職に出されるなど不遇も味わった。梁が天下を得ると官途を離れて郷里に隠棲し、十余年の隠居ののち75歳で没した。家財は乏しく、清貧を貫いた生涯であった。

年表(1件)

出自と早熟の逸話

  • 陶季直、丹陽秣陵の人。祖父の陶愍祖は宋の広州刺史、父の陶景仁は中散大夫。季直は幼くして聡明で、愍祖に深く愛された。愍祖がかつて四函の銀を前に並べ孫たちにそれぞれ取らせたとき、季直だけは取らなかった。理由を問われると「もし賜るなら父や伯父が先で、孫にまでは及ばないはずです。だから取りません」と答え、愍祖はますます奇として評価した。5歳で母を喪い成人のように哀しんだ。母が病む前に外で染めさせた衣が、死後に届いた際、季直は衣を抱いて号泣し、聞く者はみな哀れんだ。

出仕から諡号議、隠退まで

  • 長じて学を好み栄利に淡白であった。桂陽王国侍郎・北中郎鎮西行参軍に起家するが赴かず、人は彼を「聘君」と呼んだ。父の喪明けの後、尚書令劉秉が丹陽尹を領した際に後軍主簿・領郡功曹に引かれ、望蔡令に出るが病で免ぜられる。劉秉・袁粲が斉高帝の権勢増大を憂い挙兵を図ろうとした際、秉は季直を重んじ策謀に加えようとしたが、季直は袁・劉が儒者に過ぎず必ず滅ぶと考え固辞して応じなかった。まもなく秉らは誅殺された。
  • 斉初、尚書比部郎となる。時の尚書令褚淵と親しく、たびたび司空・司徒主簿として府事を委ねられた。淵の死後、尚書令王儉が「文孝公」の諡を贈ろうとしたが、季直は「文孝は司馬道子の諡でもあり、その人物が必ずしも美でなかったので、文簡の方がよい」と進言し、儉はこれに従った。季直はまた儉に淵の碑を立てさせ、終始その事業を管理し、吏節に篤いとして時人に称賛された。
  • 太尉記室参軍に遷り、冠軍司馬・東莞太守に出て「清和」と称された。散騎侍郎・領左衛司馬に還り、鎮西諮議参軍に転じる。斉武帝が執政して異己を除こうとした際、季直は迎合できず明帝に忌まれ、輔国長史・北海太守として辺職の上佐に出された(士大夫がこの職に就くことは稀であった)。ある者が季直に明帝へ謝罪の礼を尽くすよう勧めたが、明帝は季直に会うとそのまま留任させ、驃騎諮議参軍・兼尚書左丞とし、建安太守に遷った。政治は清静を尊び百姓に便宜があった。中書侍郎に還り、遊撃将軍・兼廷尉に遷る。
  • 梁台建立後、給事黄門侍郎に遷るが、常々「二千石にまで至れば本願は終わった、人間の事に務める必要はない」と言い、病と称して郷里に還った。天監初年、家において太中大夫を拝命。高祖は「梁が天下を得てからついにこの人に会えなかった」と述べたという。10年後、家で卒す。享年七十五。季直は清苦絶倫で、また十余年隠居し、死んだ時は家財が壁だけで子孫は葬送の費用もなかった。聞く者はみなその志を哀れんだ。