庾承先
- 庾承先は字を子通といい、潁川□陵(底本欠字、鄢陵か)の人。若くして沈静な性格で是非を口にせず、喜怒を顔に出さず、その心を人に窺わせなかった。若い頃、南陽の劉虬に学び、優れた記憶力は同輩に抜きん出て、玄経・釈典から九流七略にいたるまで精通した。
- 郡から功曹に招かれたが応じず、道士の王僧鎮とともに衡岳を巡り、晩年は弟の病により郷里に帰って土台山に住んだ。鄱陽忠烈王が州にあった際、その風格を敬い招いて交わり、『老子』を講じさせると遠近の名僧が集まって議論が沸き起こったが、承先は徐ろに応答し、聞く者に未聞の理解を与えた。忠烈王はいっそう敬重し州主簿に招き、湘東王も法曹参軍に招いたがいずれも赴かなかった。
- 中大通3年(531年)廬山の劉慧斐が荆州に至り、承先とは旧知の間柄であったため訪ね、荆陜の学徒が承先に『老子』の講義を請うと、湘東王は自ら車を進めて終日聴聞し、深く感心して引き留め月余りを過ごさせ、帰る際には自ら見送り詩文を贈った。隠者たちはこれを美談とした。その年、60歳で没した。
史論
- 陳の吏部尚書姚察は論じて言う。世間で処士を誣いる者の多くは「ただ虚名を盗んだだけで実用に適さない」と言うが、これは実際にそう見える者もいたからだろう。しかし諸葛璩の学識、阮孝緒の官途を厭わぬ資質のような者を見れば、彼らが仕官の道を進もうと思えば難しいことではなかったはずである。彼らが終生隠棲を貫いたのは、まさにその生まれ持った性分ゆえであった。