梁書卷五十一 列傳第四十五 庾詵

庾詵は字を彦寳といい、新野の人。博学で経史百家から緯候・射・棋・算・機巧まで通じ、家産を治めず慈悲深い行いで知られた。高祖や湘東王から幾度も官職を勧められたが固辞し、晩年は仏教に篤く帰依した。中大通4年(532年)78歳で没し、高祖は「貞節処士」と諡した。

年表(2件)
  • 普通中詔により黄門侍郎に任じられるが、病と称して赴かず
  • 中大通4年532年「願公がまた来た」と語り78歳で没す

庾詵(彦寳)

  • 庾詵は字を彦寳といい、新野の人。幼くして聡明で学に篤く、経史百家から緯候の書・射・棋・算・機巧に至るまで通じぬものはなく、性格は淡泊で、林泉10畝の宅に池を半ば占め、蔬食粗衣で産業を治めなかった。
  • かつて舟で田舎から帰る際、米150石を積んだところ、ある人が30石を便乗させてほしいと頼んだ。到着すると同乗者は「あなたは30石、私は150石」と言い張ったが、詵は黙って相手の言い分どおりに取らせた。
  • 隣人が無実の罪で盗みの疑いをかけられ拷問により誣告に至った際、詵はこれを憐れみ、銭2万を用意して門生に親族を装わせ、代わりに弁済させて隣人を救った。隣人が礼を言うと、詵は「私は天下に無実の罪で苦しむ者を憐れんだだけで、礼を期待したのではない」と述べたという。このような行いが多かった。
  • 高祖は若い頃から詵と親しく高く評価していた。挙兵に際し平西府記室参軍に任じたが詵は応じなかった。生涯交友は少なかったが、河東の栁惲が交わりを望んでも拒んで受け入れなかった。後に湘東王が荆州に臨んだ際、鎮西府記室参軍に任じたが就かなかった。
  • 普通中、詔に「賢を挙げ士を求めることは急務である。新野の庾詵は分を守り退嬰し門を閉ざして経史文芸に通じ、潁川の庾承先は黄老に通じ釈教にも精通し、いずれも競わず営まず枯淡に安んじ、浮薄を鎮め俗を厚くするに足る。詵を黄門侍郎、承先を中書侍郎とし、州県に督励させよ、その志を屈してでも国政の助けとしたい」とあったが、詵は病と称して赴かなかった。
  • 晩年はいっそう釈教に篤く帰依し、宅内に道場を建てて六時(一日六度)の礼懺を欠かさず、法華経を毎日一度誦した。ある夜、自ら「願公」と名乗る道人が現れ詵を「上行先生」と呼び、香を授けて去ったという。中大通4年(532年)昼寝中に突然目を覚まし「願公がまた来た、久しく留まれない」と言い、顔色も変えぬまま言い終えて没した。時に78歳。家中の者は皆、空中から「上行先生はすでに弥陀浄土に生まれた」という声を聞いたという。
  • 高祖はこれを聞いて詔し「善行を旌表するのは古の帝王の務めである。新野の庾詵は荆山の珠玉、江陵の梓のごとき人材で、清らかな徳を守り孤高の節を貫き、その死は痛惜に堪えない。貞節処士と諡し、その高潔な生涯を顕彰せよ」と述べた。詵の著書は『帝暦』20巻、『易林』20巻、『続伍端休江陵記』1巻、『晋朝雑事』5巻、『総抄』80巻におよび、世に行われた。
  • 子の庾曼倩は字を世華といい、早くから評判があった。世祖が荆州にいた頃、主簿として招かれ中録事に遷り、世祖は外出のたびに彼を目で追って見送ったといい、劉之遴に「荆南にはまことに君子が多い、羙(美)しい人材が田に帰った鳳、桓階のような節義の士にも劣らない」と語った。後に諮議参軍に転じ、『喪服儀』文字体例、『荘子』『老子』の義疏、注筭経、七曜暦術ほか著した文章は95巻に及んだ。子の庾季才も学識に優れ、承聖中(552-555年)中書侍郎に至ったが、江陵の陥落に際し慣例により関中に移された。