范縝
- 字は子真、南鄉舞陰の人、晉の安北將軍范汪の六世孫。祖父の璩之は中書郎、父の濛は早世。貧しく孤児として育ち母に孝謹であった。沛國の劉瓛に師事し、粗末な芒屩・布衣で通学したが車馬の貴游子弟に恥じることなく学に励んだ。三礼に精通し、危言高論を好んで士友に安んじられなかったが、外弟の蕭琛だけとは親交があった。
- 齊の寧蠻主簿を初任とし尚書殿中郎に昇進、魏との通聘の使者にも選ばれた。竟陵王蕭子良の賓客の一人でもあった。宜都太守在任中に母の喪で去職し、義軍が至ると墨絰のまま高祖を出迎えた。建康平定後は晉安太守として清廉な治績を挙げ、尚書左丞に召された。
- かつて竟陵王子良に仕えていた頃、子良が仏教に深く帰依し因果応報を説くのに対し、縝は「仏はない」と唱えた。子良が「因果を信じぬなら富貴貧賤の差はどこから来るのか」と問うと、縝は「人の生は一本の木に咲く花のようなもので、風に散った花びらがたまたま簾や茵席に落ちれば殿下、糞溷の傍らに落ちれば下官となる。貴賤は道が異なるだけで因果によるものではない」と答え、子良を屈服させられなかったが深く怪しませた。
- 縝はこの理を論じて「神滅論」を著した。要旨は「神(精神)と形(肉体)は一体であり、形が滅すれば神も滅する。神は形の働き(用)であり、形は神の実体(質)である。両者は刃と鋭さの関係のようなもので、刃を離れて鋭さだけが残ることはない」というもの。仏教が説く因果応報・輪廻に対しては、木の質に知覚がないのと同じく死者の骨は生者の身体とは別のものであり、また聖人と凡人の身体的差異が精神の差異と結びついていることをもって、精神が肉体と独立して存在するという説を退けた。さらに、仏教への熱狂が民の財産を蕩尽させ親族を顧みぬ弊風を生み、兵役・税収を損なっていると批判し、無為自然による治世を理想として説いた。この論は世に喧しい論争を呼び、子良は僧を集めて論駁させたが縝を屈服させられなかった。
- のち京師に呼び戻され中書郎・国子博士として没した。文集十巻あり。子の胥は父の学を継ぎ太学博士から平西湘東王諮議參軍・鄱陽内史などを歴任し任地で没した。