謝藺
- 字は希如、陳郡陽夏の人、晉の太傅謝安の八世孫。父の経は諮議參軍。5歳のとき、両親が食事前に乳母が先に食べさせようとしても「空腹を覚えぬのに無理に食べては最後まで食べきれない」と拒んだ。舅の阮孝緒はこれを聞き「この子は家では曽子、君に仕えては藺相如のようになろう」と名付けの由来にしたという。
- 経史に通じ一読で暗誦し、孝緒は常に「我が家の陽元(優れた子)だ」と評した。父の喪には昼夜哀慟し骨立するほど痩せ、母の阮氏が見守り抑えてようやく喪を終えた。吏部尚書蕭子顯がその至行を上奏し王府法曹行參軍に抜擢、のち外兵記室參軍となり甘露降下の頌を献じて高祖に嘉賞された。
- 太清元年、散騎侍郎兼散騎常侍として魏へ使いした際、侯景が乱を起こし境上で戦が始まった。母は帰還を案じるあまり感気して没し、藺が帰境した夜に不吉な夢を見て、劾書を投げて馳せ帰った。号哭のあまり気を失い水漿も断ち、親友が粥を勧めてもわずかしか口にできず、月余りで夜の哭礼中に没した。享年三十八。詩賦碑頌数十篇を残した。
史論
- 史臣は言う。孔子は「哀毀のあまり命を損なうことを戒めた、それは民に死をもって生を害させぬためである」と説き、喪の礼に節度が定められた所以はここにある。しかし高柴・仲由・曽参・閔損のような聖教に篤い者たちでさえ、水漿を断ち血の涙を流して喪期を終える者があった。悲しみが深く恋慕の情が切ならば、先王の定めた礼も賢者はあえてこれを越えることがあったのである。かつての篤行の人々が哀毀のあまり命を落としたのもまた、劉曇浄・何烱・江紑・謝藺のような者たちの志と同じものであろう。