出自と魏からの帰順
- 胡僧祐(字は願果)は南陽冠軍の人。若くして武勇に優れ、北魏に仕えて銀青光禄大夫に至ったが、大通二年(528年)に梁へ帰順した。高祖(武帝)に重用され超武将軍・文徳主帥として項城を守ったが陥落し、再び魏に囚われた。
- 中大通元年(529年)、陳慶之が北魏の北海王元顥を洛陽に送り込んだ際に僧祐も梁へ帰還でき、南天水・天門二郡の太守となり善政を行った。読書を好んだが文才には乏しく、宴席で無理に詩を作っては嘲られたが、それでも意に介さなかったという逸話が伝わる。
西沮蛮討伐から巴陵救援
- 世祖に仕え鎮西録事参軍となり、侯景の乱に乗じて反した西沮蛮の討伐を命じられたが、諫言して世祖の怒りに触れ投獄された。
- 大宝二年(551年)、侯景が荆陝に侵攻し巴陵の王僧辯を包囲すると、世祖は獄中の僧祐を仮節・武猛将軍・新市県侯に取り立て救援に赴かせた。出発に際し子に「捷たねば戻らぬ」と言い残した逸話が残る。
- 楊浦で侯景の将・任約の追撃をかわして赤沙亭へ退き、陸法和の軍と合流して任約を大破、これを生擒して江陵へ送った。侯景はこの報に接して退いた。
晩年と戦死
- 世祖は僧祐を侍中・領軍将軍とし荆州に呼び戻し、承聖二年(553年)には車騎将軍・開府儀同三司に進めた。
- 西魏軍が江陵に迫ると僧祐は都督城東諸軍事として、四方から攻める魏軍に対し昼夜矢石を冒して指揮したが、流れ矢に当たり戦死した。享年六十三。世祖はみずから駆けつけて哭したが、まもなく江陵城は陥落した。