梁書卷四十四 列傳第三十八 太宗十一王
太宗(簡文帝)の十一王と世祖(元帝)の二子をまとめた合伝。多くは大宝元年(550年)に相次いで郡王に封じられたが、翌大宝2年(551年)秋、侯景配下によりほぼ全員が殺害された。潯陽王蕭大心・南郡王蕭大連は各地の刺史として最後まで抵抗を試み、瀏陽公蕭大雅は城陥落に憤って病を発し薨去した。世祖の子である忠壮世子蕭方等は河東王討伐の戦いで敗死し、貞恵世子蕭方諸は侯景軍に捕らえられ殺害された。
年表(18件)
- 中大通4年532年蕭大心、皇孫として当陽公に封じられる
- 大同元年535年蕭大心、13歳で郢州刺史として出向する
- 太清2年548年蕭大心、侯景の乱に数万を集め上流諸軍と共に救援に赴く
- 大宝元年550年蕭大心、潯陽王に封じられる
- 大宝2年551年蕭大心、遇害。時に29歳
- 大宝2年551年蕭大臨、郡にて遇害。時に25歳
- 太清元年547年蕭大連、東揚州刺史として出向する
- 太清2年548年蕭大連、4万の兵を率い京師救援に赴くが台城陥落で東揚州に戻る
- 大宝元年550年蕭大連、南郡王に封じられるが留異の内応で逃走し賊に捕らえられる
- 大宝2年551年蕭大連、遇害。時に25歳
- 大宝2年551年蕭大春、遇害。時に22歳
- 太清3年549年蕭大雅、京城陥落に憤り病を発し17歳で薨去する
- 大宝2年551年蕭大荘、遇害。時に18歳
- 大宝2年551年蕭大鈞、遇害。時に13歳
- 大宝2年551年蕭大威、遇害。時に13歳
- 大宝2年551年蕭大球、遇害。時に11歳
- 大宝2年551年蕭大昕、遇害。時に11歳
- 大宝2年551年蕭大摯、遇害。時に10歳
系譜
- 太宗(簡文帝)の王皇后は哀太子蕭大器・南郡王蕭大連を生んだ。陳㳤容は潯陽王蕭大心を、左夫人は南海王蕭大臨・安陸王蕭大春を、謝夫人は瀏陽公蕭大雅を、張夫人は新興王蕭大荘を、包昭華は西陽王蕭大鈞を、范夫人は武寧王蕭大威を、褚修華は建平王蕭大球を、陳夫人は義安王蕭大昕を、朱夫人は綏建王蕭大摯を生んだ。それ以外の諸子については本書に記載がない。
潯陽王蕭大心――経歴
- 蕭大心、字仁恕。幼くして聡明であり文章に優れた。中大通4年(532年)、皇孫として当陽公に封じられ食邑1500戸。大同元年(535年)、使持節都督郢・南北司・定・新五州諸軍事・軽車将軍・郢州刺史として出向、時に13歳。太宗は幼い彼が民情に通じていないことを案じ「事の大小を問わずすべて実務を担当者に委ね、細事に心を煩わせるな」と戒めた。大心は州務に直接携わらなかったが、発言はいつも道理に適い、人々を驚かせた。
- 大同7年(541年)、召還されて侍中・石頭戍軍事を兼ねた。太清元年(547年)、出向して雲麾将軍・江州刺史となった。太清2年(548年)、侯景が京邑に侵入すると、大心は士卒を招集し遠近から人々が集まり数万に達した。上流の諸軍と共に宮闕救援に赴いた。太清3年(549年)、都城が陥落すると上甲侯蕭韶が南へ逃れ密かに詔をもたらし、散騎常侍を加え平南将軍に進号させた。
- 大宝元年(550年)、潯陽王に封じられ食邑2千戸。当初歴陽太守荘鉄が城を挙げて侯景に降っていたが、その後母を連れて大心のもとに帰順した。大心は鉄が旧将であることから厚遇し軍事を一任、豫章内史とした。侯景は度々軍を西に送り侵略させたが、大心は鉄に命じて撃退させ賊は進めなかった。
- 折しも鄱陽王蕭範は合肥を放棄して柵口に駐屯し援軍の集結を待ち共に進軍しようとしていた。大心はこれを聞き範を西へ招き、湓城を提供し十分な糧食を与え協力して禍難の除去にあたった。ところが荘鉄が豫章に拠って反乱を起こし、大心は中兵参軍韋約らに討伐させたが鉄は敗れ降伏を求めた。鄱陽世子蕭嗣はかねて鉄と交遊があり、その才略と旧将としての実績を惜しみ、大事を図るには鉄の力が必要だが、江州に降れば首級を保てなくなると考え援助を求めた。範はこれに従い将侯瑱に精兵5千を率いさせ鉄を救援、夜襲で韋約らの陣営を撃破した。大心はこれを聞いて大いに恐れた。こうして両藩の間に亀裂が生じ人心も離反した。
- 侯景配下の任約が湓城まで進出すると、大心は司馬韋質を派遣して防戦させたが敗れた。この時帳下にはなお勇士千余人おり「糧食が乏しく守り抜くのは難しい、軽騎で建州に赴き再挙を図るのが上策」と進言した。大心は決断しかねたが、母陳淑容が「今日、聖上(皇帝)は年老い、東宮も無事でいらっしゃる。お前は長く父君の顔を見に参らず、朝廷への拝謁も怠っている。私も既に老いており、遠く険しい道を行くのは、糧食も足りず孝子のすることではない。私は決して行かない」と述べ胸を叩いて慟哭したため、大心は思いとどまった。結局、任約と和議を結んだ。
- 大宝2年(551年)秋に遇害、時に29歳。
南海王蕭大臨――経歴
- 蕭大臨、字仁宣。大同2年(536年)、寧国県公に封じられ食邑1500戸。幼くして聡明で、11歳の時左夫人(実母)の喪に遭い哀哭・痩身するほど哀悼し、孝行で知られた。後に国学に入り明経で射策甲科に及第し中書侍郎を拝し、給事黄門侍郎に遷った。大同11年(545年)、長兼侍中となり、出向して軽車将軍・琅邪彭城二郡太守となった。侯景の乱に際し使持節・宣恵将軍として新亭に屯し、まもなく召還されて端門に屯し城南諸軍事を都督した。
- 議者はみな城外の財物を没収して賞賜に充てるよう勧めたが、大臨は独り「物は士に賞するもの、しかし牛は軍に犒うべきものだ」と述べ牛を徴集させ千余頭を得た。城内はこれによって士を饗することができた。
- 大宝元年(550年)、南海郡王に封じられ食邑2千戸。出向して使持節都督揚南徐二州諸軍事・安南将軍・揚州刺史となり、さらに安東将軍・呉郡太守となった。この頃、張彪が会稽で挙兵し、呉人の陸令公・潁川の庾孟卿らが大臨に彪のもとへ走るよう勧めたが、大臨は「彪が成功しても我が力を借りたわけではない、もし失敗すれば我が身も巻き込まれる。行くべきではない」と述べた。
- 大宝2年(551年)秋、郡にて遇害、時に25歳。
南郡王蕭大連――経歴
- 蕭大連、字仁靖。若くして俊爽で文章に優れ、立ち居振る舞いに風流の趣があり、音楽に精通し丹青(絵画)も巧みであった。大同2年(536年)、臨城県公に封じられ食邑1500戸。大同7年(541年)、南海王とともに国学に入り射策甲科に及第、中書侍郎を拝した。
- 大同10年(544年)、高祖が朱方に行幸した際、大連は兄大臨と共に随行した。高祖が「お前たちは騎馬を習ったか」と問うと、二人は「臣らはまだ詔を受けていないため、敢えて習っておりません」と答えた。高祖は各々に馬を与えて試させると、兄弟は鞍上でそれぞれ馳駆の技を披露し、高祖は大いに喜び乗っていた馬をそのまま賜った。上表した謝辞も見事な文であったため、高祖は後日太宗に「先日、大臨・大連の風韻はまことに愛すべきもの、私の老いを慰めるに十分であった」と語った。
- 大連は給事黄門侍郎に遷り、侍中に転じ、石頭戍軍事を兼ねた。太清元年(547年)、使持節・軽車将軍・東揚州刺史として出向。侯景が京師に侵攻すると、大連は4万の兵を率いて赴援したが、台城が陥落すると援軍は解散し東揚州に戻った。太清3年(549年)、会稽の山賊田領群が数万の党を集め攻めてきたが、大連は中兵参軍張彪に命じてこれを斬らせた。
- 大宝元年(550年)、南郡王に封じられ食邑2千戸。景はさらにその将趙伯超・劉神茂を派遣して討伐させた。大連は防備を整えて待ち構えたが、折しも留異が城を挙げて賊に応じたため、大連は城を捨てて逃走、信安に至って賊に捕らえられた。侯景は大連を軽車将軍・行揚州事とし、後に平南将軍・江州刺史に遷らせた。大連は賊の手中に迫られながら常に逃走の機会をうかがい、賊と「軍民の事には関与しない、私の存亡は鍾の音を聞くかどうかで判断してほしい」と約束を交わし、隙を見て逃亡しようとしたが、事は実現しなかった。
- 大宝2年(551年)秋、遇害、時に25歳。
安陸王蕭大春――経歴
- 蕭大春、字仁経。若くして書記を博く学び、天性孝行で慎み深く、体格は堂々として腰回りは十囲もあった。大同6年(540年)、西豊県公に封じられ食邑1500戸。中書侍郎を拝し、後に寧遠将軍・知石頭戍軍事となった。侯景が内侵すると大春は京口に逃れ、邵陵王に従って救援に向かい鍾山で戦い賊に捕らえられた。京城が陥落した後の大宝元年(550年)、安陸郡王に封じられ食邑2千戸、出向して使持節・雲麾将軍・東揚州刺史となった。
- 大宝2年(551年)秋、遇害、時に22歳。
瀏陽公蕭大雅――経歴
- 蕭大雅、字仁風。大同9年(543年)、瀏陽県公に封じられ食邑1500戸。若くして聡明で美しい容姿を持ち、特に高祖に愛された。太清3年(549年)、京城が陥落し賊が既に城壁に登った際も、大雅はなお左右に命じて奮戦させ、賊が次第に増えると自ら城壁を伝って下り、憤りのあまり病を発して薨去した。時に17歳。
新興王蕭大荘――経歴
- 蕭大荘、字仁礼。大同9年(543年)、高唐県公に封じられ食邑1500戸。大宝元年(550年)、新興郡王に封じられ食邑2千戸。かつて使持節都督南徐州諸軍事・宣毅将軍・南徐州刺史となった。
- 大宝2年(551年)秋、遇害、時に18歳。
西陽王蕭大鈞――経歴
- 蕭大鈞、字仁輔。性格は厚重でみだりに戯れなかった。7歳の時、高祖に何の書を読んでいるかと問われ「詩を学んでおります」と答え、諷誦を命じられるとその音韻は清雅であった。高祖はこれに喜び王羲之の書一巻を賜った。大宝元年(550年)、西陽郡王に封じられ食邑2千戸。出向して宣恵将軍・丹陽尹となり、大宝2年(551年)には監揚州・将軍のままとなったが、秋に遇害、時に13歳。
武寧王蕭大威――経歴
- 蕭大威、字仁容。容姿優れ眉目は絵のように美しかった。大宝元年(550年)、武寧郡王に封じられ食邑2千戸。大宝2年(551年)、信威将軍・丹陽尹として出向したが、その年の秋に遇害、時に13歳。
建平王蕭大球――経歴
- 蕭大球、字仁珽。大宝元年(550年)、建平郡王に封じられ食邑2千戸。聡明で早熟であった。侯景が京城を包囲した当初、高祖は仏教に深く帰依し、常に「衆生が諸々の苦しみを受けるべきなら、すべて自らの身に代わって受けたい」との誓願を発していた。当時大球は7歳であったが、これを聞いて驚き母に「陛下でさえこのようになさるのに、幼い私が辞退できましょうか」と述べ、日に六度礼仏し、「衆生の受けるべき苦報はすべて私が代わりに受けます」と唱えた。その早熟な聡明さはこの通りであった。
- 大宝2年(551年)、軽車将軍として出向し石頭戍軍事を兼ねたが、その年の秋に遇害、時に11歳。
義安王蕭大昕――経歴
- 蕭大昕、字仁朗。4歳の時、母陳夫人が卒すると成人のように哀しみ痩せ衰えた。高祖が崩じた際には太宗を慰めようとして嗚咽し自らを抑えられず、左右の者もみな涙をぬぐった。大宝元年(550年)、義安郡王に封じられ食邑2千戸。大宝2年(551年)、寧遠将軍・琅邪彭城二郡太守として出向したが赴任前に遇害、時に11歳。
綏建王蕭大摯――経歴
- 蕭大摯、字仁瑛。幼くして勇壮で胆気があった。京城が陥落すると「大丈夫たるもの必ずや逆賊を滅ぼすべし」と嘆いたところ、乳母が驚いてその口を塞ぎ「軽々しく口にするな、禍が及ぶ」と諫めたが、大摯は笑って「禍が及ぶのはこの言葉のせいではない」と答えた。大宝元年(550年)、綏建郡王に封じられ食邑2千戸。大宝2年(551年)、寧遠将軍となったが、遇害、時に10歳。