経歴
- 王承、字は安期。僕射王暕の子。七歳で『周易』に通じ、国子生に選ばれ、十五歳で策問に及第し高第となり、秘書郎を除せられ、太子舎人・南康王文学・邵陵王友・太子中舎人を歴任した。父の喪に去職し、喪明け後にふたたび中舎人となり、中書黄門侍郎・兼国子博士に累遷した。
- 当時、名門の子弟の多くは文学を重んじ、経術を業とする者は少なかったが、承ひとりはこれを好み、発言・議論は儒者にふさわしく、学問所で諸生に訓じ『礼』『易』の義を著した。
- 中大通五年(533年)長兼侍中に遷り、まもなく国子祭酒に転じた。承の祖の儉、父の暕もかつてこの職にあり、三世にわたり国師を務めたのは前代に例がなかった。当時これを大いなる栄誉とした。
- しばらくして戎昭将軍・東陽太守として出て、寛恵な政をもって吏民に慕われたが、着任から一年足らずで郡において卒した。享年四十一。諡は章。
子の穉と門人の逸話
- 子の承(本文どおり)は性格が簡潔高貴で風格があった。当時、右衛の朱异が朝政を専断し、休日ごとに邸に車馬が門を埋め尽くしていたが、魏郡の申英という直言を好む者は权門を憚らず、朱异の門を指して「ここに集う者はみな利のために往くのだ、寄りつかない者はただ大小の王がいるのみ」と語った。
- 「大王」は承を指し、「小東陽」はその弟の穉のことで、当時、承兄弟と褚翔だけが朱异の門に寄りつかず、世はこれを称えた。