梁書卷四十一 列𫝊第三十五 王規

王規、字は威明。琅邪臨沂の人で、斉の太尉王儉の孫。学識に優れ弁舌に長じた官僚で、陳慶之の北伐失敗を予見するなど先見の明で知られた。侍中・太子中庶子などを歴任し、大同二年(536年)卒した。享年四十五。子の襃は江陵政権で活躍したが、江陵陥落後は北周に入った。

年表(11件)

出自と若年

  • 王規、字は威明。琅邪臨沂の人。祖の儉は斉の太尉・南昌文憲公、父の騫は金紫光禄大夫・南昌安侯。規は八歳のとき生母の喪に遭い、その哀しみようは尋常でなく、太尉徐孝嗣は会うたびに涙を流し「孝童」と称え、叔父の暕もまた深く重んじ「この子は我が家の千里の駒だ」と語った。
  • 十二、三歳ですでに五経の大義をほぼ理解し、成長すると学を好み弁舌に優れた。州から秀才に挙げられ、郡から主簿に迎えられ、秘書郎から起家し、太子舎人・安右南康王主簿・太子洗馬に累遷した。
  • 天監十二年(513年)太極殿の改築が完成すると、規は新殿賦を献じその文才は優れており、秘書丞を拝し、太子中舎人・司徒左西属従事中郎を歴任した。
  • 晋安王綱が南徐州に出るとき優れた属官を選び、規を雲麾諮議参軍に引き入れた。しばらくして新安太守として出たが、父の喪に去職し、喪が明けると南昌県侯を襲封し、中書黄門侍郎を除せられ、陳郡の殷鈞・琅邪の王錫・范陽の張緬とともに東宮に侍することを勅命され、いずれも昭明太子から礼遇された。
  • 湘東王がかつて京尹であったとき朝士と宴を開き、規に酒令を任せると、規は落ち着いて「江左以来これほどの催しはなかった」と答え、特進蕭琛・金紫傅昭も同席してこれを卓見と評した。

北伐への評言と後半生

  • 普通初(520年頃)、陳慶之が北伐して洛陽を奪還すると百官はこれを祝賀したが、規は退いて「道家に『功を成すのが難しいのではなく、成した功を保つのが難しい』という言葉がある。羯(後趙以来の異民族)の残党は久しく彷徨っており、桓温も一度は得ながら失い、宋の武帝もついに成功しなかった。我が軍は援けなく敵地深く入っており、威勢が及ばず輸送も続かない。この一戦は禍のもととなろう」と述べたが、まもなく王師は覆没した。規の先見の明はこのように優れていた。
  • 普通六年(525年)高祖が文徳殿で広州刺史元景隆を送別する宴を開き、群臣に五十韻の詩を賦すよう詔すると、規は筆を執ってただちに奉り、その文はいっそう見事であった。高祖はこれを喜び、即日、侍中に任じた。
  • 大通三年(529年)五兵尚書に遷り、まもなく歩兵校尉を領した。中大通二年(530年)貞威将軍・驃騎晋安王長史として出た。その年、王が皇太子に立てられると呉郡太守を兼ねた。
  • 主書の芮珍宗の一族は呉郡にあり、歴代の太守はみな心を寄せて取り入っていたが、珍宗が仮に帰郷した折、規はこれを冷淡に遇した。珍宗は都に戻ると密かに「規は郡務を治めていない」と奏上し、まもなく規は左民尚書に召された。郡の吏民千余人が朝廷に赴き規の留任を三度上表したが許されなかった。
  • 尋いで本官のまま右軍将軍を領することになったが赴任前に散騎常侍・太子中庶子・領歩兵校尉に転じ、規は病と称し辞退して鍾山の宗熙寺に室を築いて住んだ。
  • 大同二年(536年)卒した。享年四十五。詔により散騎常侍・光禄大夫を追贈され、銭二十万・布百疋を賻われ、諡は章。皇太子は哭に臨み、湘東王繹に書を送って「威明が昨夜にわかに世を去った、まことに痛惜に堪えない。その風格は端正で気概は高く聳え、文才は縦横で学識は豊かであり、洒脱な気風がとりわけ多かった。まことに俊才であった」と悼んだ。
  • 「あっという間に永訣し、長夜に帰ってしまった。金の刀は光を失い、長い淮水も涸れ果てたかのようだ。昨年の冬にはすでに劉子(劉孺か)を悼み、今年の初春にはまた王生を弔うことになった。ともに世を去ったこの悲しみは、けっして誇張ではない」と続けた。
  • 規は『後漢衆家異同』『続漢書』二百巻を著し、文集二十巻があった。

王規の子・襃――経歴

  • 子の襃、字は子漢。七歳で文を作ることができ、外祖の司空袁昻は彼を愛して賓客に「この子はきっと我が家の相続者となろう」と語った。弱冠で秀才に挙げられ、秘書郎・太子舎人を除せられ、父の喪に去職し、喪明け後に南昌侯を襲封した。
  • 武昌王文学・太子洗馬を兼ね、東宮管記を兼ね、司徒属に遷り、秘書丞として出て、安成内史を除せられた。太清年間、侯景が都を陥落させ、江州刺史当陽公大心が州を挙げて賊に附くと、賊はさらに南中を侵したが、襃はなお郡に拠って守り続けた。
  • 大宝二年(551年)世祖は襃を召して江陵に赴かせ、忠武将軍・南平内史とし、まもなく吏部尚書に遷った。侍中を兼ね、承聖二年(553年)尚書右僕射に遷り選事を兼ね掌り、その年侍中を加えられ、左僕射に遷り選事の掌握はもとのままとした。
  • 承聖三年(554年)江陵が陥落し北周に入ると、襃は『幼訓』を著して子弟を戒めた。その一章に、陶侃(士行)は「大禹は尺璧を惜しまず寸陰を重んじた。文士がなぜ書を誦まないのか、武士がなぜ馬射を習わないのか」と言ったと引き、冬の長夜・夏の永日に居所を粛然と整え、垣を高くし、門に雑駁な出入りがなく、座に喧噪がなければ、学べば孔子の門人のごとく、文を作れば賈誼の域に至ると説いた。
  • 古の盤盂に銘があり、几杖に戒めがあったように、進退にはこれに則り、俯仰にはこれを観るべきとし、『詩経』に「初めなきはなし、終わりを克くするは鮮し」とあるように、始終を一貫することが君子の言葉であるとした。
  • 儒家は尊卑の序・吉凶の差を説き、君は南面し臣は北面するのを天地の義とし、鼎俎の奇数・籩豆の偶数を陰陽の義とする。道家は身体を忘れ聡明を退け、義を捨て仁を離れ、形を離れ智を去ることを説く。仏教は苦を見て習いを断ち、滅を証し道を明らかにし因を循い果を弁え、凡から聖に至ることを説く。教えの形は異なっても帰するところは同じであるとし、自らは幼学より天命を知る歳に至るまで周孔の教えを尊びながら老釈の説にも通じてきた、江左以来この学問は絶えていないので、汝もこれを修めることが我が志であると結んでいる。
  • 初め沛国の劉㲄・南陽の宗懔は襃とともに中興(元帝の江陵政権)の佐命として帷幄をともにしていた。

劉㲄――経歴(附伝)

  • 劉㲄、字は仲宝。晋の丹陽尹劉真長の七世孫。若くして方正で器量があり、国子の礼生から策問を受けて高第に及第し、寧海令となり、湘東王記室参軍・中記室に遷った。
  • 太清年間、侯景の乱で世祖が承制して上流の書檄の多くを㲄に委ね、㲄も力を尽くして忠を尽くし大いに賞遇を受けた。尚書左丞・御史中丞を歴任し、承聖二年(553年)吏部尚書に遷り国子祭酒はもとのままとした。

宗懔――経歴(附伝)

  • 宗懔、字は元懔。八世祖の承は晋の宜都郡守で、永嘉の乱の東遷に伴い子孫は江陵に住むようになった。懔は幼くして聡敏で学を好み昼夜怠らず、郷里では「童子学士」と呼ばれた。
  • 普通年間(520年代)湘東王府の兼記室となり、刑獄に転じ書記を掌り、臨汝・建成・広晋等の令を歴任し、のち世祖の荊州別駕となった。世祖の即位後は尚書郎とされ、信安県侯(邑千戸)に封じられ、吏部郎中・五兵尚書・吏部尚書に累遷した。
  • 承聖三年(554年)江陵の陥落とともに劉㲄と共に北周へ入った。