梁書卷四十 列傳第三十四 許懋
許懋、字は昭哲。高陽新城の人で、魏の鎮北将軍許允の九世孫。『毛詩』に通じた儀注の学者。天監初、会稽での封禅を行おうとした高祖に対し経典を博引してこれを諫め、議を止めさせたことで知られる。太子家令などを歴任し、中大通四年(532年)卒した。享年六十九。
年表(5件)
- 天監初五礼の詳定に参与する
- 天監七年508年大裘の製作を初めて請う
- 十年(天監十年、)511年太子家令に遷る
- 中大通三年531年『長春義記』の編纂に参与する
- 中大通四年532年中庶子を拝すが、その年に卒する。享年六十九
経歴
- 許懋、字は昭哲。高陽新城の人。魏の鎮北将軍許允の九世孫。祖の珪は宋の給事中・著作郎・桂陽太守、父の勇慧は斉の太子家令・冗従僕射。懋は幼くして父を失い、至孝の性質を持ち、父の喪に服して礼を尽くし、州里で称えられた。
- 十四歳で太学に入り『毛詩』を学び、師説をひとたび修めると晩年にはみずから講座を開き、聴講者は常に数十百人にのぼった。これにより『風雅比興義』十五巻を著し、世に広く行われた。とりわけ故事に明るく、儀注の学として知られた。
- 後軍豫章王行参軍から起家し、法曹に転じ茂才に挙げられ、驃騎大将軍儀同中記室に遷った。文恵太子はこれを聞いて召し、崇明殿で侍講させた。太子步兵校尉を除せられ、永元年間、散騎侍郎に転じ国子博士を兼ねた。司馬褧と親しく交わり、僕射江祏はこれを深く重んじ「経史笥(経書史書の宝庫)」と称した。
- 天監初、吏部尚書范雲は懋を推して五礼の詳定に参与させ、征西鄱陽王諮議・兼著作郎を除せられ、文徳省に待詔した。会稽を封禅し国山を禅ずるよう請う者があり、高祖は礼を好んだためこれを行おうと儒学の士を集め封禅の儀を起草させようとした。
- 懋はこれに反対し、次のように建議した。
- 舜が岱宗(泰山)に幸したのは巡狩であって、鄭玄が『孝経鉤命決』を引いて「泰山で封じ績を考えて柴を焼き、梁父で禅ずる」というのは緯書の曲説であり正経の通義ではない。
- 『白虎通』によれば「封」とは広く附すこと、「禅」とは成功を相伝することを言う。もし禅譲を意味するなら、禹は啓に伝えるべきでなかったはずが桀まで十七世続き、湯もまた外丙に伝えるべきでなかったはずが紂まで三十七世続いている。
- 『礼記』によれば「三皇は奕奕(盛徳)を禅じ、五帝は亭亭(独立の身)を禅じ、三王は梁父を禅じ父子で継いだ」とあるが、伏羲・神農・黄帝を三皇とすればそれぞれ「云云」「亭亭」を禅じたとされ「奕奕」に該当せず、辻褄が合わない。五帝についても顓頊・帝嚳・堯・舜がみな「云云」を禅じたとされ「亭亭」に合わない。三王についても禹は「云云」を禅じ、周成王は「社首」を禅じたと旧書にあり、礼記の説と食い違う。これらはみな伝聞の誤りであろう。
- 管仲が挙げたという七十二君の封禅の記録も、実際には二十数君しか年代が確認できず、共工など帝でない者を数に入れねばそれほどの数にならない。
- 燧人氏以前は君臣の別すらなく人心が素朴であったから、金泥玉検を用いて泰山に登り石に刻むようなことがあるはずがない。燧人・伏羲・神農の三皇は結縄の政で文字も未発達であり、告成を刻む文もあり得ない。
- 管仲の言う「受命の君のみが封禅を行える」との説に従えば、周成王は受命の君ではないのに泰山・社首で封禅したことになり矛盾する。また神農と炎帝は同一人物であるのに別々に封禅したとされるのも誤りである。
- 聖主であれば封禅の必要はなく、凡主であれば行うべきではない。おそらく斉の桓公が封禅を行おうとした際、管仲がその不可を知りながら怪異な話を持ち出して思いとどまらせたのであろう。
- 秦の始皇帝は泰山の中腹で暴風雨に遭い松の木の下に避け、五大夫に封じただけで事は成らず、漢の武帝は方士を信じ儒生を広く召したが霍嬗一人と登っただけで、まもなく子侯(霍嬗)が急死し脚を痛める凶事があった。魏の明帝は高堂隆に儀礼を撰させたが、隆の死を聞き「天が私の事業を成させたくないのだ」と嘆いた。晋の武帝は泰始年間から太康年間まで封禅を議したが決着せず、ついに行われなかった。孫皓は董朝・周処を陽羨に遣わし国山で禅祭を行わせたが、これも君臣ともに功徳もなく古道に思いを致さず名を求めただけの行為である。
- 封禅は正経の説くところではなく、ただ『左伝』に禹が塗山で諸侯を会し玉帛を執る者万国とあるが、これも封禅とは呼ばれていない。鄭玄は緯候の書を専ら信じ正経を推し量ることができず、これは誤りである。
- 『礼』にいう「天に事えるは名山にて」「地に事えるは吉土にて」「天を郊で祀り燔柴す」とは泰山にちなむ意であり、これが『曲礼』の「天子は天地を祭る」の意味である。祈穀・報穀の礼、『楽記』の「大楽は天地と同和し、大礼は天地と同節す」の意から、地にもまた祈報の礼があると知れる。
- 一年に三たび郊天・三たび祭地があり、『周官』の圜丘・方沢はこれをまとめたものである。小宗伯にいう「五帝を四郊に兆す」とは『月令』の迎気の郊祭である。『舜典』にいう「歳二月に東に巡狩して岱宗に至る」とは夏に南、秋に西、冬に北へと五年で一周するもので、封禅とは数が合わない。これらは合わせて九つの郊祭となり、いずれも正しい儀礼である。
- 大旅は南郊で行う常祭ではない特別な祭であり、『大宗伯』に「国に大故あれば上帝に旅す」とある。『月令』の仲春に玄鳥が至って高禖を祀るのも常祭ではなく、『詩』にいう「禋を克くし祀を克くして子無きを弗する」もこれにあたる。雩祷も常祭ではなく、『礼』にいう「雩禜は水旱のため」とある。これらを合わせると、郊天地の礼は特別な郊祭を含めて天祀十六・地祭三となる。ただし大禘の祭祀はこれに含まれない。『大伝』にいう「王者はその祖の出づるところを禘し、その祖を配す」とあり、常祭とは異なるゆえに「時祭より大なり」という。
- 『繋辞』にいう「易の書たるや広大にして備わり、天道あり地道あり人道あり、三才を兼ねてこれを両にす」の意から、六年ごとに一度の祭祀に応じ、乾彖にいう「大いなるかな乾元、万物資して始まり天を統ぶ、雲行き雨施し品物流形す。大明終始し六位時に成る」の意もこれに応じる。坤元もまた同様であり、誠敬の道はここに尽くされる。封禅については、あえて聞くところではない。
- 高祖はこの議を喜んで受け入れ、懋の議を敷衍して制旨として封禅を請う者に答えさせ、これにより封禅の議は止んだ。十年(天監十年、511年)太子家令に遷った。
- 宋斉以来の旧儀では郊天・祀帝にはみな衮冕を用いていたが、天監七年(508年)懋は初めて大裘の製作を請うた。ところが明堂での祭祀の儀注には依然「衮冕を服す」とあったため、懋は「『礼』にいう『大裘にして冕し昊天上帝を祀る、亦た之の如くす』とあるのは、天神が尊く遠いゆえに誠実さ・質朴さを貴ぶからである。今、広く五帝を祭るのに文飾を改めて用いないのは道理に合わない」と論駁し、これにより大裘の使用が始まった。
- また勅により、陰陽に応じてそれぞれの類に従うべきところ、雩祭で柴を焼いて水を祈るのは疑わしいと問われた。懋は「雩祭で柴を焼くことは経典に見えない。これは先儒が考えなかったためである。周の宣王の雲漢の詩に『上下奠瘞し神として宗とせざるは靡し』とあり、毛の注は『上は天を祭り下は地を祭り、その幣を奠しその物を瘞める』と説く。これによれば旱のために天地を祭る際にはいずれも瘞埋の儀があり、燔柴の説は見えない。もし五帝を祭るのに必ず燔柴すべきというなら、今の明堂の礼にもその事はない。また『礼』に『少牢をもって時の功を祭る』とあり、これは五帝を祭る際にも柴を用いない証である。昔、雩壇は南方の正陽の位にあり神を求める道理に反していたため東に移した。実柴の礼はまだ改められていないので、柴の使用を止め、犠牲などの物はすべて坎に瘞める方式に改め、周の宣王の雲漢の説に合わせるべきである」と答え、詔によりみなこれに従った。
- 懋は諸々の礼儀を多く正した後、足の病により始平太守として出て、政績を挙げて散騎常侍を加えられ、天門太守に転じた。中大通三年(531年)皇太子は諸儒を召して『長春義記』の編纂に参与させ、四年(532年)中庶子を拝したが、その年に卒した。享年六十九。『述行記』四巻を撰し、文集十五巻があった。
史論
- 陳の吏部尚書姚察は次のように評する。司馬褧は儒術に博く通じ、到溉は文才に優れ機敏であり、劉顯・許懋・劉之遴は学問に努め物事を深く究め、いずれも要職にあって忙しく応対に追われた。これはいわば厳助・朱買臣のような任にあたるものである。到溉・劉之遴はついに顕貴の地位に至り、青紫の印綬を早々に得たが、時運に恵まれなければどうしてこれほどの仕官を果たせたであろうか。