梁書卷四十 列傳第三十四 劉之遴
劉之遴、字は思貞。南陽湼陽の人で、斉の国子博士劉虬の子。若くして異才と評された学者官僚で、古器や典籍の考証を好み、班固『漢書』古本を校訂して異同十事を著すなど文献学に業績を残した。太清二年(548年)侯景の乱を避けて避難する途中、夏口で没した。享年七十二。
年表(1件)
- 太清二年548年侯景の乱により郷里へ避難する途中、夏口に至って卒する。享年七十二
経歴
- 劉之遴、字は思貞。南陽湼陽の人。父の虬は斉の国子博士、諡は文範先生。之遴は八歳で文を作ることができ、十五歳で秀才に挙げられ策問に答えると、沈約・任昉はこれを見て異才と評した。
- 寧朔主簿から起家し、吏部尚書王瞻がかつて任昉を訪ねた際、之遴が同席しており、昉は瞻に「これは南陽の劉之遴、学識優れながらまだ仕官していない。水鏡(人物鑑定に長けた者)ならば抜擢すべき人物だ」と語り、瞻はすぐに太学博士に招いた。
- 張稷が尚書僕射に新任した際、任昉に辞退の上表文を依頼したが、昉は之遴に代作させ、筆を執るとすぐに書き上げた。昉は「荊南の秀気、まことに異才である。後に仕えれば必ず私を超えよう」と評した。御史中丞楽藹は之遴の伯父で、台の弾劾文もみな之遴が起草した。
- 平南行参軍・尚書起部郎・延陵令・荊州治中を歴任し、太宗が荊州に臨むと宣恵記室に遷った。之遴は篤く学び審らかに諸書を博覧し、当時強記で知られた劉顯・韋稜も之遴との議論では及ばなかった。
- 通直散騎侍郎・兼中書通事舎人に還任し、正員郎・尚書右丞・荊州大中正に遷り、さらに中書侍郎・鴻臚卿を歴任し、中書舎人を兼ねた。征西鄱陽王長史・南郡太守として出た際、高祖は「そなたの母は年も徳も高いので、そなたを衣錦還郷させ、孝養を尽くさせよう」と述べた。
- のち西中郎湘東王長史(太守はもとのまま)に転じた。初め荊州府にいたとき南郡の役所に寄居していたが、かつて夢に前太守袁彖が現れて「そなたは後に折れた腕を持つ太守となるであろう」と告げ、その通りに之遴は腕を痛めた後この郡に臨んだ。
- 母の喪に服したのち祕書監に召され步兵校尉を領し、郢州行事として出ることを望まず固辞したが、高祖は自ら手ずから勅を下して「私は聞く。妻子を大切にしすぎれば親への孝が衰え、爵禄を大切にしすぎれば君への忠が衰えると。そなたは家庭で満ち足りているとはいえ、公に奉ずる節を忘れてはならぬ」と諭した。結局、有司に免官を奏上され、しばらくして太府卿・都官尚書・太常卿に任じられた。
- 之遴は古物を好み奇を愛し、荊州で古器数十百種を集めていた。ある器は甕のような形で一斛を容れるほどの大きさで、金錯の銘文があったが、これを識別できる者はいなかった。
- また東宮に古器四種を献じた。第一は銅の鴟夷榼二枚で、両耳に銀の象嵌銘があり「建平二年造」とあった。第二は金銀象嵌の古樽二枚で、篆書の銘に「秦の容成侯が楚に赴いた年に造る」とあった。第三は外国の澡灌一口で、銘に「元封二年、亀茲国献ず」とあった。第四は古い澡盤一枚で、銘に「初平二年造」とあった。
- 折しも鄱陽嗣王範が班固の『漢書』真本を得て東宮に献じ、皇太子は之遴に張纘・到溉・陸襄らとともに異同を校訂させた。之遴は異同十事を具に挙げ、その大略は次の通り。
- 古本の『漢書』には「永平十六年五月二十一日己酉、郎の班固上る」とあるが、今本には上書の年月日が記されていない。
- 古本の叙伝は「中篇」と称するが、今本は「叙伝」と称する。
- 今本の叙伝は班彪の事跡を載せるが、古本は「稚生彪自有伝」と記す。
- 今本は紀・表・志・列伝の順序が一致しないが、古本は順序が一致し、あわせて三十八巻をなす。
- 今本は外戚が西域の後にあるが、古本は外戚が帝紀の次にある。
- 今本は高五子・文三王・景十三王・武五子・宣元六王が諸伝の中に雑然と収められているが、古本は諸王がみな外戚の次、陳項伝の前にまとめられている。
- 今本の韓彭英盧呉の述に「信は餓隷にすぎず、布は実に黥徒であったが、越もまた狗盗の身から芮・尹として江湖に名を上げ、雲が起こり龍が驤るごとく諸侯・王となった」とあるが、古本の述には「淮陰は毅然として剣を杖につき、周章として国の傑となり、子は実に彭・英であり、王侯となって雲龍のごとく起こった」とある。
- 古本には第三十七巻に音義を解いて雅詁を助ける巻があるが、今本にはこの巻がない。
- 之遴は文を好み、古体を多く学び、河東の裴子野・沛国の劉顯と常に討論して交友を深めた。当時、『周易』『尚書』『礼記』『毛詩』にはいずれも高祖の義疏があったが、『左氏伝』だけがまだ欠けていたため、之遴は『春秋大意』十科・『左氏』十科・『三伝同異』十科、合わせて三十事を著してこれを高祖に献じ、高祖は大いに喜んだ。
- 高祖は詔で答え、之遴が撰した春秋の義について、事を比べ書を論じその言葉は含蓄が深く遠大であり、編年の教えは義を明らかにすること甚だ多く、丘明の伝は洙泗の風を伝え、公羊は西河の学を受け、鐸椒の解釈は瑕丘に及ばず、胡母生を継ぐ者もない。董仲舒の教えは盛んであり、榖梁は千秋がもっとも篤実で、張蒼が伝えた左氏は賈誼が受け継ぎ、荀卿を源としながらも枝分かれし、その帰結は異なるとし、この学問の由来は古いと述べ、若い頃に一度研究してから久しく置いていたが、この五十年近く、冬の夜長にも公務に追われ探究する暇がなかった、夏の陽気の頃に改めて考えたいと答えた。
- 太清二年(548年)侯景の乱により郷里に避難する途中、夏口に至って卒した。享年七十二。前後の文集五十巻が世に行われた。
劉之遴の弟・之亨(附伝)
- 之亨、字は嘉会。之遴の弟。若くして令名があり、秀才に挙げられ太学博士を拝した。まもなく中書通事舎人・步兵校尉・司農卿を兼ね、また兄の之遴に代わって安西湘東王長史・南郡太守となり、郡において優れた治績を挙げたが、数年で任地で卒した。享年五十。荊州の地では今なおその徳を慕い、之遴を「大南郡」、之亨を「小南郡」と呼んでいる。