梁書卷四十 列傳第三十四 到溉

経歴

  • 到溉、字は茂灌。彭城武原の人。曽祖の彦之は宋の驃騎将軍、祖の仲度は驃騎江夏王従事中郎、父の坦は斉の中書郎。溉は幼くして父を失い貧しかったが、弟の洽とともに聡敏で才学があり、早くから任昉に見出されて名声を広めた。
  • 王国の左常侍から起家し、後軍法曹行参軍に転じ、殿中郎を歴任し、建安内史として出た。中書郎・兼吏部・太子中庶子に遷った。湘東王繹が会稽太守となったとき、溉は輕車長史として府郡の事を行った。高祖は王に「到溉はそなたの部下というだけでなく、そなたの師とするに足る人物である。折に触れて必ず相談せよ」と勅した。
  • 母の喪に遭い、喪に服して礼を尽くし朝廷はこれを称えた。喪が明けても長く粗食・布衣を続けた。通直散騎常侍・御史中丞・太府卿・都官尚書・郢州長史・江夏太守を歴任し、招遠将軍を加えられて左民尚書に入った。
  • 溉は身長八尺で風采が美しく、立ち居振る舞いに優れ、常に清廉を旨として質素倹約を好み、女色を好まなかった。部屋は簡素で侍女もなく、外出の際の車馬・衣服も華美を求めず、朝服は十年に一度替えるほどで、ときには繕った服のまま道を清めて呼ばわらせ、朝廷の威儀を示すだけであった。
  • まもなく事に坐して金紫光禄大夫に左遷されたが、ほどなく散騎常侍・侍中・国子祭酒を授けられた。溉は謹厚な性格で高祖にとくに親愛され、しばしば夕方から明け方まで対局した。溉の邸の山池には珍しい石があり、高祖は戯れにこれと礼記一部を賭け、溉はいずれも負けたが献上せずにいると、高祖は朱异に「到溉が賭けた品は献上させるべきか」と尋ねた。溉は板を斂めて「臣はすでに君に仕える身、どうして礼を失うことがありましょう」と答え、高祖は大いに笑った。その親愛ぶりはこの通りであった。
  • のち病により失明し、詔により金紫光禄大夫・散騎常侍のまま邸で養生させた。溉の家は和睦を旨とし、兄弟はとりわけ仲がよかった。かつて弟の洽と一つの居室を共にしていたが、洽の死後はそこを寺として捨て、以来生涯精進料理を通し、別に小室を営んで朝夕僧徒とともに礼誦した。高祖は毎月三度浄い供物を届けさせ、恩礼は篤かった。
  • 鍾山の延賢寺は溉の一族が代々創立したもので、生涯の俸給をこれに充て、ほとんど私しなかった。交遊を好まず、朱异・劉之遴・張綰とだけ親しく、病に伏していても三人はしばしば年始・節句に立ち寄り、酒を置いて生涯を語り歓を尽くしてから去った。
  • 臨終に際し張綰・劉之遴に子孫を薄葬にするよう託し、享年七十二で卒した。詔により本官を追贈され、二十巻の文集が世に行われた。当時、溉・洽兄弟は「二陸」(陸機・陸雲兄弟)になぞらえられ、世祖は「魏の世は丁儀・丁廙兄弟を重んじ、晋朝は二陸を称えたが、今の二到はそれ以上、寒中の竹に似ている」と詩を贈った。

子の鏡・藎

  • 子の鏡は字を圓照といい、安西湘東王法曹行参軍・太子舎人となったが早くに卒した。鏡の子の藎は幼くして聡慧で、著作佐郎から起家し、太子舎人・宣城王主簿・太子洗馬・尚書殿中郎を歴任した。
  • かつて高祖に従い京口に行幸し北顧楼に登った際、詩を賦すよう命じられ、藎は詔を受けてすぐに完成させた。高祖はこれを見て溉に「藎はまさに才子である。そなたの文章もまた藎の助けを借りているのではないか」と示し、溉に連珠を賜って「墨を磨って文筆を騰らせ、毫を飛ばして書信を綴るのは、蛾が火に飛び込むようなもの、身を焼くとも惜しまぬ。年老いた身はすでにこれを尽くしたので、若い者に委ねてもよかろう」と述べた。藎はこれほどまでに評価された。丹陽尹丞に除せられたが、太清の乱で江陵に赴き卒した。