梁書卷三十九 列𫝊第三十三 元法僧

元法僧は北魏皇族の傍系で、始祖は道武帝。魏に仕え徐州刺史として彭城に鎮したが、普通五年(524年)魏の内乱に乗じて皇帝を称して自立し、まもなく梁に帰順した。高祖(梁武帝)から厚遇され侍中・司空・太尉などを歴任し、大同二年(536年)薨じた。享年八十三。

年表(7件)

魏からの帰順と晩年

  • 元法僧は北魏の皇族の傍系で、始祖は道武帝、父は江陽王鍾葵。魏に仕えて光禄大夫を歴任し、のち使持節都督徐州諸軍事・徐州刺史として彭城に鎮した。
  • 普通五年(524年)、魏の朝廷が大いに乱れると、法僧は鎮を拠点に皇帝を称し、意に沿わぬ者を誅殺して諸子を王に立て、将帥を配して魏の匡復を図ろうとした。
  • しかし魏の内乱がやや治まり、法僧を討とうとする動きが起こると、法僧は恐れて使者を送り帰順を願い出た。高祖(梁武帝)はこれを許し、侍中・司空、始安郡公(邑五千戸)に封じた。
  • 魏軍が迫ると法僧は朝廷への帰還を願い出て、高祖は中書舎人朱异を遣わして迎えさせ、厚くもてなした。降伏した者を招き慰撫するため、法僧には邸宅・女楽・金帛が数えきれぬほど下賜された。
  • 法僧は長く魏の辺境に身を置いていたため、寇掠のたびに殺戮が甚だしく、みずから兵で身を守ることを願い出て、詔により甲仗百人が禁中への出入りに付けられた。
  • 大通二年(528年)冠軍将軍を加えられ、中大通元年(529年)車騎将軍に転じ、四年(532年)太尉に進み金紫光禄大夫を領した。同年東魏王に立てられたが赴任せず、使持節・散騎常侍・驃騎大将軍・開府儀同三司・郢州刺史を授けられた。
  • 大同二年(536年)侍中・太尉・領軍師将軍に召され、薨じた。享年八十三。

子の景隆・景仲

  • 二子は景隆・景仲。普通年間(520年代)に法僧に従って朝廷に入り、景隆は沌陽県公(邑千戸)に封じられ、持節都督広越交桂等十三州諸軍事・平南将軍・平越中郎将・広州刺史として出た。
  • 中大通三年(531年)侍中・安右将軍に召され、四年(532年)征北将軍・徐州刺史・彭城王に封じられたが赴任せず、まもなく侍中・度支尚書に除された。
  • 太清初(547年)ふたたび使持節都督広越交桂等十三州諸軍事・征南将軍・平越中郎将・広州刺史となったが、雷首に至って病を得て卒した。享年五十八。
  • 景仲は枝江県公(邑千戸)に封じられ、侍中・右衛将軍を拝した。大通三年(529年)加増され合わせて二千戸となり、女楽一部を賜った。持節都督広越等十三州諸軍事・宣恵将軍・平越中郎将・広州刺史として出て、大同年間(535〜546年)侍中・左衛将軍に召された。
  • のち兄景隆に続いて広州刺史となった。侯景の乱が起こると、景仲が元氏の一族であることから、侯景は使者を送って誘い、盟主として奉じると約した。景仲は挙兵して呼応しようとしたが、折しも西江督護陳霸先が成州刺史王懐明らとともに挙兵してこれを攻めた。
  • 霸先は「朝廷は元景仲が賊と結んで社稷を危うくしようとしていると見なし、曲江公勃を刺史として当州を鎮撫させることとした」と衆に触れ、それを聞いた景仲の軍勢はみな甲を捨てて散った。景仲はついに自縊して死んだ。