梁書卷三十四 列𫝊第二十八 張纉

出自と経歴

  • 字伯緒。緬の第三弟。伯父の弘籍(高祖の舅)の養子となった。梁初、弘籍は廷尉卿を追贈された。
  • 11歳で高祖の第四女富陽公主に娶り、駙馬都尉・利亭侯に封ぜられた。国子生に召され秘書郎から出仕。17歳、身長7尺4寸、眉目秀麗で神彩あふれ、高祖は「張壮武はかつて『八代の後にわが子孫に及ぶ者が出る』と言っていたが、この子がそれか」と評した。
  • 学問を好み、兄緬の蔵書1万余巻を昼夜披読して手を休めなかった。秘書郎は宋斉以来名族の子弟が起家に選ばれる職で、通常数十日から百日で昇進するが、纉は昇進を求めず閣内の書籍をすべて見尽くしたいと願い、常に四部書目を手にして「これを読み終えてこそ仕官を語ることができる」と述べた。こうして数年を経てようやく太子舎人に転じ、洗馬・中舎人を歴任し記室を掌った。琅邪の王錫と並び称された。
  • 普通初(520年頃)、魏が彭城の劉善明を派遣し和議を求めるとともに纉との面会を望んだ。纉23歳、善明はその才に感嘆した。太尉諮議参軍、尚書吏部郎を歴任、まもなく長史兼侍中となる。当時の人は栄達が早すぎると評したが、河東の裴子野は「張吏部の要職就任はむしろ遅すぎたくらいだ」と言い、以後纉と忘年の交わりを結んだ。
  • 大通元年(527年)、寧遠華容公長史として出向し、琅邪・彭城二郡の国事を代行。翌年、華容公北中郎長史・南蘭陵太守・貞威将軍を兼ねて府州の事を代行。3年(529年)、度支尚書に入る。母の喪により去職し、喪明け後、呉興太守に出る。治政は煩苛を省き清静を旨とし、民吏はこれを便とした。
  • 大同2年(536年)、吏部尚書に召される。選考にあたり寒門の人材も一人残らず引き立て、権貴に媚びなかったため世に称賛された。5年(539年)、高祖は手詔で「纉は外戚の英才、朝中の領袖。司空以後、名は范陽に冠たり」として尚書僕射に任じた。
  • 纉は当初、政務を共にする何敬容と意が合わず、敬容が権柄を握り賓客が押し寄せる中、纉を訪ねてくる者があっても「私は何敬容の余り客には応対しない」と拒んだ。上表文では「地方から中央の要職に転じ、是非を論じられる立場になったが、狭量ゆえに耳目が塞がれ、清濁の判別も及ばない。まして心を偽り顔を飾ることは自分の得意とせず、俗人と共に事をなすのを喜ばない」と述べ、暗に敬容を指したものであった。纉は南郊の御乗素輦の議、印綬官の朝服着用の議を主導し、いずれも施行された。
  • 9年(543年)、宣恵将軍・丹陽尹に昇るはずが、拝命前に持節都督湘桂東寧三州諸軍事・湘州刺史に改められた。赴任の途上、纉は「南征賦」を作った。長江中流の風物や湘水流域の史跡・故事(屈原・賈誼・伍子胥・孫呉の興亡など)を巡って感懐を述べた長編の賦であり、要旨は赴任の旅情と古人への追慕、自らの微力を憂う心情である(長大な賦のため趣旨のみを記す)。
  • 湘州赴任後、十郡の尉を停め、老弱・疾病の吏卒を解放し、関市の防備を整理統合した。零陵・衡陽等の郡には莫徭蛮と呼ばれる山岳民がおり、険阻を頼んで歴代服従してこなかったが、纉の治世で感化され帰順した。益陽県では二頃の田で通常と異なる穂が実る瑞祥があった。纉の治世4年で流民10万余が帰還し、州境は大いに安定した。
  • 太清2年(548年)、領軍に召されたが、改めて持節都督雍梁北秦東益・郢州之竟陵・司州之随郡諸軍事・平北将軍・寧蛮校尉に任じられた。当初、邵陵王綸が湘州刺史を継ぐはずであったが、後に河東王誉に代わった。纉は誉を軽んじ出迎えや資給を薄くしたため、誉はこれを深く恨み、纉が着任すると病と称して面会せず、纉は州府の事務をすべて検束して誉を留め赴任させなかった。
  • 侯景が都を包囲すると誉は援軍に赴こうとしたが、荊州刺史湘東王(蕭繹)の軍が郢州の武城に至った際、纉は密使を送り「河東王誉はすでに帆を上げて上流に向かい、荊州を襲おうとしている」と報じた。湘東王はこれを信じて軍を返し荊湘を鎮め、これにより誉との確執が深まった。
  • 纉はまもなく単身で部下を離れ江陵に赴いた。湘東王は使者を送って誉を責め、纉の旧部下を取り戻させた上で、纉を襄陽に遣わした。前刺史の岳陽王蕭詧は交代を渋って赴任せず、纉は城西の白馬寺に留め置かれた。都(建康)陥落を聞いた詧は交代を拒み、州の防衛官杜岸に纉を欺かせ「岳陽殿下は必ずあなたを容れない。西山に逃れて義兵を募れば近隣が必ず集まり、私も部下を率いて後から合流する。この義挙は必ず成功する」と言わせた。纉はこれを信じて盟約を結び、夜に山中へ逃げ込んだ。杜岸はこれを詧に密告し、軍を率いて追跡した。纉の軍勢は杜岸の軍を味方の合流と喜んで迎えたが、逆に纉と部下は捕らえられ俘虜として送られた。纉は幽閉され、剃髪させられて道人にされた。
  • その年、詧が挙兵して江陵を攻めた際、纉は常に連行されて従軍させられ、軍が敗退して湕水の南に至ると、監視の者が追手を恐れて纉を殺害し、屍を捨てて去った。享年51。元帝(承制)は侍中・中衛将軍・開府儀同三司を追贈し、諡を簡憲公とした。纉は識見に優れ、元帝からも早くから誠意を尽くして重用された。元帝は即位後、纉を追懐して詩を作り、その序で「簡憲(纉)の人柄は、王侯にへつらわず才気を任じ、私に会えば夜通し語り合ってやまなかった。その徳を思う日を忘れることはない」と述べた。纉は『鴻宝』100巻・文集20巻を著した。次子の希、字子顔は早くから知られ、太宗の第九女海塩公主に娶り、承聖初(552年頃)に黄門侍郎に至った。