梁書卷二十七 列傳第二十一 到洽
到洽、字は茂沼、彭城武原の人。若くして名を知られ、一時山中に幽居したのち梁に出仕、その学才と清言は当時から高く評価された。御史中丞として弾劾に忌憚なく「勁直」と称され当時の政治を粛清した。大通元年、尋陽太守として任地で没す。享年五十一、諡は理子。
出自と若年
- 到洽、字は茂ノ㳂、彭城武原の人。宋の驃騎将軍彦之の曽孫。祖父の仲度は驃騎江夏王従事中郎。父の坦は斉の中書郎。洽は十八歳で南徐州迎西曹行事となり、若くして名を知られ、清警で才学があった。士行の謝朓が洽の文章を高く評価し、日々引見して談論し「君はただの名士ではなく文武を兼ねる者だ」と称した。朓は吏部となった際、洽を推薦しようとしたが、洽は世が乱れることを見て固辞した。晋安王国左常侍に任じられるも就任せず、山中に室を築いて幽居すること数年に及んだ。楽安の任昉は人を見る目があり、洽の兄の沼・溉と親しく、田舎に洽を訪ねて「この者は当代随一だ」と嘆じ、親交を結んだ。
梁での歴任
- 天監初、沼・溉とともに登用され、洽は特に評価された。従弟の到沆も名を並べたため、高祖が待詔の丘遅に「到洽は到沆・到溉と比べてどうか」と問うと、遅は「清廉さは沆に勝り、文章は溉に劣らず、加えて清言はほとんど並ぶ者がない」と答えた。太子舎人に召され、華光殿で沆・蕭琛・任昉らと共に二十韻の詩を賦した際、洽の作が最も優れ絹二十匹を賜った。高祖が任昉に「到氏一族は皆才子だ」と言うと、昉は「宋は武を得、梁は文を得たと言われております」と答えた。
- 二年、司徒主簿・直待詔省となり、勅により甲部書の抄写を命じられる。五年、尚書殿中郎に遷り、到氏兄弟が相次いでこの職に就いたため人々に栄誉とされた。七年、太子中舎人に遷り、庶子の陸倕と共に東宮の管記を掌る。まもなく侍読、さらに学士二人が置かれ洽もこれに選ばれた。九年、国子博士に遷り、勅により太学碑を撰す。十二年、臨川内史として出向し、郡でよく職を果たした。十四年、太子家令に召され、給事黄門侍郎・国子博士を兼ねる。十六年、太子中庶子に遷る。普通元年、本官のまま博士を領す。まもなく尚書吏部郎に召され、請託を一切受けなかった。まもなく員外散騎常侍に遷り博士を再び領するが、母の喪で去職。五年、再び太子中庶子・歩兵校尉を領するが未拝任のまま給事黄門侍郎・尚書左丞を領し、准縄を貴戚にも及ぼしたため尚書省では賄賂が通じなくなった。当時、鑾輿が親征を計画しており、軍国の容礼の多くは洽の手によるものだった。
晩年と評価
- 六年、御史中丞に遷り、弾劾に忌憚なく「勁直」と称され、当時の政治を粛清した。公事により左遷されてもなお職にとどまった。旧制では中丞は尚書下舎に入ることができなかったが、洽の兄の溉が左民尚書となったため、洽は服親(近親)であることを理由に入ることを望み、左丞蕭子雲の議で許され、兄弟の情誼の篤さから省もこれを認めた。七年、貞威将軍・雲麾長史・尋陽太守として出向。大通元年、郡で卒す。享年五十一。侍中を追贈され、諡は理子。
- 昭明太子が晋安王綱への令で、到洽と北兗の到長史(明山賓)の相次ぐ死を悼み、また陸倕の死からわずか一年での二賢の逝去を惜しみ、陸倕については忠を尽くし貞を守り冰清玉潔、学は四始(詩経)に該通し九流に遍く通じ、高い志と気概をそなえていたと評し、明山賓については儒学に稽古し温厚淳和で終始一貫して道を立てたと評し、到洽については風神開爽で文義に見るべきものがあり、官にあっては私心なく、みな海内の俊才・東序の秘宝であったと嘆じた。近しく交わり忠規を尽くしたことは言葉に尽くせぬとし、なお昨日のことのように思われると懐旧の情を述べた。到洽の文集は世に行われた。子は伯淮・仲挙。