梁書卷二十六 列傳第二十 陸杲

出自と斉での立身

  • 陸杲、字は明霞、呉郡呉の人。祖父徽は宋の輔国将軍・益州刺史。父叡は揚州治中。杲は若くして学を好み書画に巧みで、舅の張融に似た風韻があり、当時「日下に対する者なし、舅と甥のみ」と称された。斉の中軍法曹行参軍・太子舎人・衛軍王儉主簿を経て尚書殿中曹郎に遷ったが、八座がそろって上省する日に遅刻し、免官となった。
  • その後、司徒竟陵王外兵参軍、征虜宜都王功曹史、驃騎晋安王諮議参軍、司徒従事中郎を歴任。梁台建国後、驃騎記室参軍、相国西曹掾。天監元年、撫軍長史。母の喪で去職し、服喪後、建威将軍・中軍臨川王諮議参軍、黄門侍郎・右軍安成王長史。五年、御史中丞。

御史中丞としての剛直

  • 杲は性格が剛直で忌憚がなかった。山陰令虞肩が任中に数百万の贓汚を働いたのを摘発して収治し、中書舎人黄睦之が肩の事で取りなしを求めても応じなかった。高祖に問われ「そのようなことはあった」と答え、黄睦之を知っているかと問われると「臣はその人物を存じません」と答えたが、実は睦之が御側に控えており、高祖に「この者がそうだ」と指し示されると、杲は睦之に向かって「君のような小人が何をもって罪人が南司(御史台)に頼ろうとするのか」と一喝し、睦之は色を失った。
  • 領軍将軍張稷は杲の従舅にあたるが、杲は公事で稷を弾劾した。稷は侍宴の際に高祖へ「陸杲は臣の近親であるのに、小事で弾劾して容赦しない」と訴えたが、高祖は「杲はその職務を果たしただけ、卿が何を嫌がることがあろうか」と退けた。杲は台にあって「彊禦を畏れず」と称された。

梁での歴任と晩年

  • 六年、秘書監、まもなく太子中庶子・光禄卿。八年、義興太守として出向し、郡では寛恵な政治で民に称えられた。司空臨川王長史・領揚州大中正。十四年、通直散騎侍郎、まもなく散騎常侍・中正はもとのまま。十五年、司徒左長史。十六年、左民尚書に遷り、太常卿。普通二年、仁威将軍・臨川内史として出向。五年、金紫光禄大夫・領揚州大中正。中大通元年、特進・中正はもとのまま。四年卒す。享年七十四。諡は質子。
  • 杲は仏法を篤く信じ戒律を厳守し、沙門伝三十巻を著した。弟の煦は学問に優れ思慮深く、天監初に中書侍郎・尚書左丞・太子家令を歴任して卒し、晋書を撰したが未完に終わり、また陸史十五巻・陸氏驪泉志一巻を著して世に行われた。杲の子の罩は篤学で文才があり、太子中庶子・光禄卿にまで至った。

史論

  • 史臣曰く、范岫・傅昭はともに篤実で清廉、始めから終わりまで節を守った点で、漢の石建・石慶に比すべき人物である。蕭琛・陸杲はともに才学で知られた。琛は聡明で弁が立ち朝廷の典礼に精通し、高祖がまだ微賤であった頃から交わり、即位後も厚遇された。杲は剛直で忌憚なく法を執行し権勢を憚らなかった。まさに「彼其の之子、邦の司直」(詩経の句)と言うべき人物であった。