梁書卷二十六 列傳第二十 蕭琛

出自と斉での立身

  • 蕭琛、字は彦瑜、蘭陵の人。祖父僧珍は宋の廷尉卿。父恵訓は太中大夫。琛が幼い頃、伯父の恵開が背をなでて「必ず我が宗を興す」と言った。少くして縦横の才弁があり、斉の太学博士として出仕。当時実権を握っていた王儉に未だ知られていなかったため、儉が楽遊苑で宴を催した際、虎皮の靴を履き桃の杖をついて直接押しかけ、儉に気に入られた。儉が丹陽尹となると主簿に辟され、南徐州秀才に挙げられ、司徒記室に遷った。

梁での歴任

  • 永明九年、魏との通好が始まり、琛は二度桑乾に使いした。帰朝後、通直散騎侍郎。魏の使者李道固が来た際の宴で、琛が酒を勧めると道固は「公庭に私礼なし」と辞退したが、琛が「詩に『雨我公田、遂及我私』とある」と答えると、道固も感服して酒を受けた。司徒右長史、晋熙王長史・行南徐州事、少府卿、尚書左丞。東昏侯即位の際、廟見の典が無いことが議論となったが、琛は周頌の故事を引いて即位の朝廟の典を主張し、これが採用された。
  • 高祖が京邑を平定すると驃騎諮議・領録事に引き立て、給事黄門侍郎に遷る。梁台建国後、御史中丞。天監元年、庶子に遷り宣城太守として出向、後に召されて衛尉卿・員外散騎常侍。三年、太子中庶子・散騎常侍。九年、寧遠将軍・平西長史・江夏太守。

呉興太守時代

  • 宣城在任中、北方から来た僧が瓢箪一つに漢書の異本(三輔の古老が班固の真本と伝えるもの)を携えており、琛は懇望して手に入れた。書物の紙墨は古めかしく文字も篆隷とも異なる書体だったため、秘蔵していたが、後にこの書物を鄱陽王範に贈り、範はこれを東宮に献じた。
  • 安西長史・南郡太守、母の喪・父の喪により相次いで去官。信武将軍・護軍長史、貞毅将軍・太尉長史、信威将軍・東陽太守、呉興太守を歴任。呉興郡には項羽廟(俗に憤王と呼ばれる)があり霊験を恐れて歴代太守が別室に避けていたが、琛は神座を廟に戻し、殺牛の祭祀を脯に代えさせた。頻繁に大郡を治めたが産業には乏しく、闕くところがあれば取ることも辞さなかった。

晩年

  • 普通元年、宗正卿。左民尚書・南徐州大中正・太子右衛率を経て度支尚書・左驍騎将軍・領軍将軍、秘書監・後軍将軍、侍中。高祖とは西邸時代からの旧知で「宗老」と呼ばれ親しく交わり、琛は「早くよりお仕えできた恩は今も変わらない」と答え、高祖も旧交を懐かしんだ。琛はかつて「若い頃は音律・書・酒を好んだが、年を重ねて音律と酒の二事は廃れ、書籍のみ変わらぬ」と語り、性格は自由闊達で自ら竈事を処理し酔いを楽しんだ。
  • 大通二年、金紫光禄大夫・特進となり親信三十人を賜る。中大通元年、雲麾将軍・晋陵太守(秩中二千石)となるが、病により侍中・特進・金紫光禄大夫に改任され、その年卒す。享年五十二。遺言で子らに、妻と同墳異蔵で葬り、祭は蔬菜のみとし、葬送の車は十乗に留めるよう命じ、事は質素を旨とした。高祖は輿に乗って赴き哭し深く悲しんだ。詔して本官に雲麾将軍を加贈し、東園秘器・朝服一具・衣一襲・銭二十万・布百匹を賻し、諡は平子。