梁書卷二十六 列傳第二十 傅昭

出自と宋斉での立身

  • 傅昭、字は茂逺、北地霊州の人。晋の司隷校尉咸の七世孫。祖父は和之。父の淡は三礼に通じ宋世に名を知られたが、宋の竟陵王劉誕に仕え、誕の反乱に連座して誅された。昭は六歳で孤児となったが成人のように喪に服し、宗族はみなその異才を認めた。
  • 十一歳の時、外祖父に従い朱雀航で暦日を売っていたところ、雍州刺史袁顗の食客であった祖(=原文どおり)が居合わせ、昭が動じず書を読む様子に「この子は神情凡ならず必ず佳器となろう」と感嘆した。司徒建安王休仁が招こうとしたが、昭は宋室の多事を理由に応じなかった。廷尉虞愿に推薦され迎えられ、当時の名流であった虞通之が「英妙山東に擅たり」と詩を贈った。太原の王延秀の推薦で丹陽尹袁粲に厚く礼遇され、郡主簿となって粲の諸子に学を授けた。明帝崩御の際、袁粲の哀策文の制定に関わり、粲は昭の家の戸口を経るたびに「その人ここに在り」と嘆じたという。総明学士・奉朝請。
  • 斉の永明中、員外郎、司徒竟陵王子良の参軍、尚書儀曹郎。先に御史中丞劉休の推薦で武帝の永明初に南郡王侍読となり、王が帝位に就いた後も臣下が争って権寵を求める中、昭と南陽の宗夬だけは身を保ち正を守って禍を免れた。

梁での歴任

  • 明帝が即位すると中書通事舎人に引き立てたが、この職にある者はみな権勢に傾く中、昭だけは清廉で無為に過ごし、器物も質素で常に燭を板牀に挿していた。明帝はこれを聞き、漆の合と燭盤を賜り「卿に古人の風あり、故に古人の物を賜う」と勅した。車騎臨海王記室参軍・長史・校尉・太子家令、驃騎晋安王諮議参軍を経て尚書左丞・本州大中正。高祖(蕭衍)が建康を平定すると、昭の能を知り驃騎録事参軍に引き立てた。梁台建国後、給事黄門侍郎・領著作郎、まもなく御史中丞・黄門・著作・中正を兼ねる。天監三年、五兵尚書を兼ね選事に参与。四年、正式に任官。六年、左民尚書に遷るが赴任前に建威将軍・平南安成王長史・尋陽太守として出向。七年、振遠将軍・中権長史。八年、通直散騎常侍・歩兵校尉・本州大中正を兼ねる。十年、再び左民尚書として出向。

安成内史時代

  • 十一年、信武将軍・安成内史として出向。安成郡は宋以来兵乱が続き「凶郡」と呼ばれていたが、昭が郡に着くと郡内の人が夜、兵馬鎧甲が盛んに現れ「善人の軍を避けよ」という声を聞く夢を見、夢の直後に疾風暴雨で数間の屋が倒れ、まさに夢に見た軍馬が踏んだ場所だったという。以後郡舎は安定し、人々は昭の正直さによるものだとした。郡の渓には魚がおらず、暑い時期に魚を献じる者があっても、昭は受け取りも拒みもせず門の脇に捨てさせた。

晩年と人物評

  • 十二年、秘書監・後軍将軍。十四年、太常卿。十七年、智武将軍・臨海太守。郡には蜜巌があり歴代太守が独占して利を得ていたが、昭は「周文王の囿を民と共にした」故事を引いて封鎖を禁じ、県令が餉した粟や絹の贈り物も笑って返した。
  • 普通二年、通直散騎常侍・光禄大夫・本州大中正、まもなく秘書監を兼ねる。五年、散騎常侍・金紫光禄大夫・中正はもとのまま。任地では清静を旨とし、朝廷では請謁せず、私門生を養わず私利を貪らず、書記を楽しみとして老いても衰えなかった。魏晋以来の官宦・婚姻の系譜に博く通じ、遺漏なく論じることができた。性格は篤慎で、子婦が家から贈られた牛肉を得た際、「食えば法を犯し、告げれば身内を罪に落とす」として、自ら受け取り密かに埋めさせた。京師の後進はその学と道を重んじ、皆自らを及ばずとした。
  • 大通二年九月卒す。享年七十五。銭三万・布五十匹を賻され、即日哀を挙げ、諡は貞子。長子の諝は尚書郎・臨安令。次子は肱。

傅映――生涯

  • 傅映、字は徽逺、昭の弟。三歳で父を失ったが兄弟仲睦まじく、礼に外れた行いをしなかった。昭が臨海に赴任する送別の宴で、陸倕が引き留めようとした際、映は昭の高齢を案じて自ら迎えに行った。兄弟共に白髪となった様子を人々は美しく思った。昭が没すると父のように喪に服し、七十を過ぎてもなお哀慟した。
  • 記伝の学に通じ文才があったが著述を志さなかった。若くして劉繪・蕭琛と親交を結び、劉繪が南康相となった時、映は府丞として文教の文案の多くを担った。褚彦回はこれを喜び、子の賁らと交遊させ、出仕を勧めたが、映は昭が未だ出仕していないことを理由に固辞し、昭の出仕を待ってから自らも官に就いた。
  • 永元元年、鎮軍江夏王の軍事に参与し、武康令として出向。高祖の軍が建康に迫った際、忠貞を守ろうとした呉興太守袁昂が意見を求め、映は「元嘉末以来、開闢未曽有の事態があり、太尉が節義に殉じた例がある以上、司徒(袁昂)は寄託の重を負い、安危を顧みず名義に殉じるべきである。今、嗣主は昏虐で小人に近づき賢を誅殺し、外難がやまない。荊雍の挙兵は昏に背き明に向かうもので、勢いは必ず成る。民は治を思い、天人の意も明らかである。願わくは明府が慮りを改められよ」と答えた。
  • 公事により免官。天監初、征虜鄱陽王参軍、建安王中権録事参軍・領軍長史・烏程令となったが、俸禄はすべて兄に譲った。臨川王録事参軍、南台治書、安成王録事、太子翊軍校尉を経て、中散大夫・光禄卿・太中大夫に至る。大同五年卒す。享年八十三。子は弘。