出自と斉での立身
- 范岫、字は懋賓、済陽考城の人。高祖の宣は晋の徴士、父の羲は宋の兗州別駕。岫は早くに父を失い、母によく孝を尽くし、呉興の沈約とともに蔡興宗に礼遇された。
- 泰始年間、奉朝請として出仕。蔡興宗が安西将軍となると主簿に迎えられた。臨海・長城の二県令、驃騎参軍、尚書刪定、護軍司馬、司徒竟陵王子良の記室参軍、太子家令を歴任。文恵太子の東宮で沈約らとともに文才を見出されたが、岫の名は学識の広さで知られ、沈約は「胡広に劣らぬ博学」と称し、南郷の范雲も「前代の故事は范長頭(岫)に問え」と評した。
- 国子博士となり、永明中、魏の使者を迎える役に選ばれ淮陰長史を兼ねて応対し、尚書左丞に遷った。母の喪で去官したが後に起用され、寧朔将軍・南蛮長史・南義陽太守(未赴任)、右軍諮議参軍、撫軍司馬、建威将軍・安成内史、給事黄門侍郎、御史中丞・前軍将軍・南北兗二州大中正を歴任。
梁での歴任と晩年
- 永元末、輔国将軍・冠軍晋安王長史・行南徐州事。高祖(蕭衍)の義師が京邑を平定すると勅により尚書吏部郎に召され、大選に参与。梁台建国後は度支尚書。天監五年、散騎常侍・光禄大夫として皇太子に扶して仕える。六年、太子左衛率を領す。七年、通直散騎常侍・右衛将軍・中正はもとのまま。その年、致仕を願う表を上げたが許されなかった。八年、晋陵太守(秩中二千石)。九年、祠部尚書・右驍騎将軍を領し、その年金紫光禄大夫に遷り、親信二十人を加えられた。十三年、官のまま卒す。享年七十五。銭五万・布百匹を賻された。
- 岫は身長七尺八寸、恭敬にして威儀を重んじ、母の喪の後は生涯蔬食布衣で過ごした。歴任した官では清廉で知られ、長城令の時に得た梓材の巾箱を数十年使い続けて改めず、晋陵では象牙管の筆一双を作ったのみで、それすら贅沢と考えた。著書に文集・礼論・雑儀・字訓があり世に行われた。二子は襃・偉。