梁書卷二十一 列傳第十五 王暕

出自と経歴

  • 王暕は字を思晦といい、琅邪臨沂の人で、父儉は斉の太尉・南昌文憲公である。暕は数歳にして風神警抜、成人の度があった。当時文憲が宰相となり賓客が門に満ちていたが、暕を見ると「公才公望はまさにこの子にある」と言った。弱冠で淮南長公主を娶り駙馬都尉を拝し、員外散騎侍郎を除されたが拝さず、晋安王文学に改授され、廬陵王友・秘書丞に遷った。明帝が異士を求める詔を下すと、始安王遥光は暕および東海王僧孺を薦める表を上げ、賢を求めることは暫し労するも垂拱永逸となるものであり、暕は年二十一にして七葉重光の名門、海内の冠冕であり神清気茂、允迪中和、名教の楽しみを体するものであると称えた。驃騎従事中郎を除され、高祖の霸府が開かれると戸曹属に引かれ、司徒左長史に遷った。天監元年、太子中庶子として驍騎将軍を領し、入朝して侍中となり、出でて寧朔将軍中軍長史となり、また侍中として射声校尉を領し、五兵尚書に遷り給事中を加えられ、出でて晋陵太守となり、吏部尚書に徴されまもなく国子祭酒を領した。暕は名公子として若くして美称を得たが、選曹に居るに及んでは職事は整っていたものの、世に貴顕な出自であったため物と隔たり寒門の士に心を留めることができず、世人は頗る刻薄と評した。尚書右僕射に遷り、まもなく侍郎を加えられ、また右僕射に遷ったが、母の喪により官を去り、起用されて雲麾将軍呉郡太守となり、還って侍中・尚書左僕射・国子祭酒を領した。普通四年冬、暴疾により卒した。時に年四十七。詔により侍中・中書令・中軍将軍を贈られ、東園秘器・朝服一具・衣一襲・銭十万・布百匹を給され、諡は靖といった。四子あり訓・承・穉・訏、いずれも顕達した。

王訓(暕の子)

  • 王訓は字を懐範といい、幼くして聡警で識量があり、徴士何𦙍はこれを見て竒とした。年十三で暕が亡くなり憂毀のあまり家人も見分けがつかぬほどとなった。十六で文徳殿に召見され応対は爽やかに徹り、上は目送すること久しく、朱异に「相門に相ありと言うべきだ」と語った。国子生を補われ射策で高第となり秘書郎を除され、太子舎人・秘書丞に遷り、宣城王文学・友・太子中庶子に転じ管記を掌り、まもなく侍中に遷った。拝命して入見すると、高祖は従容として何敬容に「褚彦回は何歳で宰相になったか」と問い、敬容は「三十を少し過ぎた頃です」と答えると、上は「今の王訓は彦回にひけを取らない」と言った。訓は容儀が美しく進止に優れ、文章の美をもって後進の領袖となり、東宮にあって特に恩礼を被った。疾によりその職のまま終えた。時に年二十六。本官を贈られ諡は温子といった。