梁書卷十五 列傳第九 謝朏(敬沖)

謝朏、字は敬沖、陳郡陽夏の人(460–509年)。幼くして神童と称された名門の子弟で、斉の禅譲に際し璽の授与を拒んで名節を守り、隠棲を貫いた高潔の士。梁の高祖に厚遇され晩年に出仕し、侍中・司徒に至った。甥の謝覧も文才と善政で知られる。

年表(12件)
  • 永明二年散騎常侍・中書監への徴召にも応じない
  • 永明元年483年起家して通直散騎常侍を拝し、累遷して侍中・国子博士を領す
  • 五年487年冠軍将軍・義興太守として出向し3年在任する
  • 隆昌元年494年侍中・新安王師の拝命前に固辞し征虜将軍・呉興太守となる
  • 建武四年497年侍中・中書令への召に応じず郡の西郭に隠棲する
  • 翌年六月自ら宮闕に赴いて拝謁し、侍中・司徒・尚書令を拝命するも脚疾を理由に固辞する
  • 天監三年504年元会に小輿のまま昇殿することを許される
  • 五年後509年中書監・司徒・衛将軍に改授されるも固辞する
  • その年冬509年邸で薨去。享年六十六
  • 天監元年502年謝覧、中書侍郎として吏部の事を掌る
  • 天監九年510年謝覧、山賊呉承伯の乱で郡を放棄し会稽へ逃れる
  • 天監十二年513年謝覧、呉興太守として出向し廉潔な治で称えられる

謝朏――出自と神童ぶり

  • 謝朏、字は敬沖、陳郡陽夏の人。祖父の謝弘微は宋の太常卿、父の謝荘は右光禄大夫で、ともに前代に名を知られた。謝朏は幼くして聡慧で、謝荘に愛されて常にそばに置かれた。十歳で文章を作ることができ、謝荘が土山に遊んで詩を賦した際、謝朏に篇を命じるとたちまち書き上げ、琅邪の王景文は謝荘に「賢子はまさに神童と称するに足り、後々必ず抜きん出るだろう」と評した。謝荘は笑って朏の背を撫で「まことに我が家の千金だ」と言った。
  • 孝武帝が姑孰に遊んだ際、謝荘に命じて謝朏を伴わせ、洞井の賛を詠ませてその場で奏上させると、帝は「幼いながら奇童だ」と言った。撫軍法曹行参軍として出仕し、太子舎人に遷り、父の喪により去職、服喪明けに再び舎人となった。中書郎、衛将軍袁粲の長史を歴任した。袁粲は性が簡素で厳しく賓客をほとんど通さず、当時の人は後漢の李膺になぞらえたが、謝朏が謁見して退出した際、袁粲は「謝令は死なずにいる」(謝朏に免じて厳格さを崩さなかったの意)と評した。

謝朏――斉初の抵抗と隠棲

  • ほどなく給事黄門侍郎に遷り、臨川内史として出向したが、賄賂の疑いで弾劾され、その案件は袁粲を経由したため袁粲がこれを握りつぶした。斉の高帝が驃騎将軍として輔政すると、謝朏を長史に選び、河南の褚炫・済陽の江斅・彭城の劉俁とともに宋帝に侍らせ、当時「天子四友」と号された。続いて侍中を拝し、中書・散騎の二省を兼掌、高帝の太尉進位の詔冊にも関わった。高帝はまた謝朏を長史とし南東海太守を帯びさせた。
  • 高帝が禅代(王朝交代)を図り佐命の臣を求めていた際、謝朏の名望を重んじ、魏晋の故事を論じつつ「晋の易姓革命の際、事の兆しは早くからあったのに石苞は早く晋文王(司馬昭)に勧めず、死してから慟哭したのは馮異のようには機を知らなかったのだ」と水を向けたが、謝朏は「魏の臣に魏武帝へ帝位を勧めた者があったとき、魏武帝は『もし私を用いるなら周の文王のようでありたい』と答えた。晋文王(司馬昭)も魏に仕えた身、必ず身を終えるまで北面する立場だったはずで、たとえ魏が早く唐虞の故事に倣ったとしても、三度は譲るのが道理であろう」と答えた。高帝は不悦となり、代わりに王倹を左長史に用いた。
  • 謝朏は侍中・秘書監を領した。斉の受禅の日、謝朏はちょうど当直で百官が並ぶ中、侍中として璽を解く役目にあったが、わざと知らぬふりをして「何の公事か」と言い、伝詔の使者が「璽を解いて斉王に授けよ」と告げても「斉には自ずから侍中がいるはずだ」と枕を引き寄せて横になった。伝詔の使者が恐れて病と称させ交代させようとしたが、謝朏は「私に病はない、何を言うのか」と朝服のまま東掖門を歩いて出て、車に乗って邸へ帰った。この日、結局王倹が侍中となって璽を解いた。まもなく斉の武帝が高帝に謝朏の誅殺を求めたが、高帝は「殺せばかえってその名を成すだけだ、放っておくのがよい」と言い、謝朏は家に廃された。

謝朏――斉中期の出処

  • 永明元年(483年)、起家して通直散騎常侍を拝し、累遷して侍中・国子博士を領した。五年(487年)、冠軍将軍・義興太守として出向し中二千石の秩を加えられ、郡内では雑事を綱紀(属官)に任せ、自ら「私は主として振る舞えないが、属官なら太守の代わりが務まる」と語った。三年在任の後、都官尚書・中書令に召された。隆昌元年(494年)、再び侍中・新安王師となったが、拝命前に固く外出を求め、征虜将軍・呉興太守となり、召を受けてすぐ赴任した。
  • 明帝(斉)が帝位継承を謀った際、朝廷の旧臣は皆謀議に加わったが、謝朏は内心引退を図り、実務を避けた。弟の謝瀹が当時吏部尚書であったので、謝朏は郡に着任すると瀹に酒数斛を贈り、書を送って「この酒を存分に飲め、人事には関わるな」と伝えた。謝朏は郡にいる間、政務を怠りがちで、もっぱら蓄財に努め、人々はこれを譏ったが本人は意に介さなかった。建武四年(497年)、詔で侍中・中書令に召されたが、上表して応じず、子らを都へ帰し、自らは母とともに郡の西郭に室を築いて留まった。
  • 明帝は詔を下し、その隠棲の高潔さを讃え、牀帳・褥席を賜い俸禄も所在で支給するよう命じた。当時、国子祭酒の廬江何𦙍もまた上表して会稽に帰っていた。永明二年(原文ママ、以下同じ)、詔で謝朏を散騎常侍・中書監に、何𦙍を散騎常侍・太常卿に徴したが、いずれも応じなかった。三年、また詔で謝朏を侍中・太子少傅に、何𦙍を散騎常侍・太子詹事に徴し、東昏侯は所在の官にまで督促させたが、義師が既に迫っていたためいずれも赴かずに済んだ。

謝朏――梁への出仕と最期

  • 高祖(蕭衍)が京邑を平定して相国に進むと、謝朏・何𦙍を招く上表を出し、「困窮しては独善、志を得ては兼済するのが道であり、出処の理はその時による」として、謝朏を侍中・太子少傅、何𦙍を散騎常侍・太子詹事・都亭侯に任じ、両者の家柄・徳望・清廉さを称え、乱世の兆しを早くから見抜いて身を引いた見識を讃え、自らへの参与を切に求める文を送った。ともに軍諮祭酒への任も求め、謝朏には後将軍も加えたが、いずれも赴かなかった。
  • 高祖践阼後、謝朏を侍中・光禄大夫・開府儀同三司に、何𦙍を散騎常侍・特進・右光禄大夫に召したが、また応じず、領軍司馬王果を遣わして説諭させた。翌年六月、謝朏は軽舟に乗って自ら宮闕に赴いて拝謁し、侍中・司徒・尚書令を拝命したが、脚の疾を理由に拝謁できないと辞し、角巾に肩輿で雲龍門に詣で謝意を伝えた。高祖は華林園で謝朏に会い、小車のまま席に着かせた。翌朝、高祖自ら謝朏の邸に行幸し宴を尽くしたが、謝朏は固く本志(隠棲)を陳べたため許され、東へ帰って母を迎える願いも許された。出発の際にも高祖は再び行幸して詩を賦し送別した。
  • 都に着くと材官に命じて旧宅に邸を築かせ、高祖は自ら車駕を出して謁者を遣わし邸で拝授させ、公事・朔望の朝謁を免除した。天監三年(504年)の元会には小輿のまま昇殿することを許された。その年に母の喪に遭ったが、詔により職を摂したまま服喪した。五年後(509年)、中書監・司徒・衛将軍に改授されたが固辞し、謁者を遣わして受けさせた。その年の冬に邸で薨去、享年六十六。高祖は車駕を出して哭し、東園秘器・朝服一具・衣一襲・銭十万・布百匹・蝋百斤を給い、侍中・司徒を追贈、諡は靖孝といった。
  • 著書・文章は世に行われた。子の謝諼は官が司徒右長史に至ったが牛を殺した罪で免官、家で卒した。次子の謝篹は文才があり晋安太守に至って卒官した。

謝覽(景滌)――出自と栄達

  • 謝覧、字は景滌、謝朏の弟謝瀹の子である。斉の銭唐公主を娶り駙馬都尉に拝され、秘書郎・太子舎人を歴任した。高祖が大司馬となると招かれて東閤祭酒に補され、相国戸曹に遷った。天監元年(502年)中書侍郎として吏部の事を掌り、まもなく正式に任じられた。
  • 謝覧は容姿優れ弁舌に長け、高祖に深く重んじられた。かつて侍座で勅を受け、侍中王暕とともに詩の贈答を命じられその文が巧みだったため、高祖はさらに作らせ、詩を賜って「双方とも後進として優れ、二人とも名家の実を備える、いずれも棟梁たるのみか国の華でもある」と称えた。母の喪により去職、服喪明けに中庶子となり、また吏部郎の事を掌った。まもなく吏部郎に任じられ侍中に遷った。
  • 謝覧は酒を好み、宴席で散騎常侍蕭琛と互いに罵り合い有司に奏上されたため、高祖は謝覧が年少であるとして直接処分せず中権長史として出向させた。ほどなく東宮の管記を掌るよう勅され、明威将軍・新安太守に遷った。天監九年(510年)夏、山賊呉承伯が宣城郡を破り、残党が新安に入って叛吏鮑敘らと合流し黟・歙の諸県を陥れ、謝覧を攻めた。謝覧は郡丞周興嗣を遣わし錦沙に塁を築いて防戦させたが敵わず、郡を放棄して会稽へ逃れた。台軍が山賊を平定すると謝覧は郡に戻ったが、左遷されて司徒諮議参軍・仁威長史・行南徐州事・五兵尚書を経て、まもなく吏部尚書に遷った。謝覧は祖父から孫まで三代にわたり選部(吏部)を掌り、当世の栄誉とされた。
  • 天監十二年(513年)春、呉興太守として出向。中書舎人黄睦之の一家は烏程県で専横をふるい、歴代の太守も皆これに屈していたが、謝覧が着任前に睦之の子弟が出迎えに来ると、その船を追い返し取り次いだ役人を杖罰したため、以後睦之の一家は門を閉ざして公私の交渉を絶った。郡の劫盗による被害が多かったが、謝覧が着任すると郡内は粛然として治まった。かつて斉の明帝と謝覧の父謝瀹、東海の徐孝嗣がともに呉興太守を務め「明守」と称されており、謝覧はいずれをも凌ごうとした。かつて新安では蓄財に努めたが、この時には廉潔と称され、時人は王懐祖になぞらえた。在官のまま享年三十七で卒去、中書令を追贈された。子の罕は早く卒した。

史論

  • 陳の吏部尚書姚察は言う。謝朏の宋代における身の処し方は、忠義の士と言えよう。斉の建武の世、身を引いて志を全うし、永元の多難な時代にも確固として独りその善を守ったのは、疎広・疎受の流れに連なる者ではないか。高祖が興ると、あまねく人材を求め、角巾のまま出仕して首位の三公に上り詰めたのは、出処の極みと言うべきである。謝覧も善政を全うし、君子はこれを是とした。