出自と生い立ち
- 任昉、字は彦昇、楽安博昌の人。漢の御史大夫任敖の後裔である。父の任遥は斉の中散大夫。任遥の妻裴氏はかつて昼寝の際、彩旗と傘蓋に四角の鈴を懸けたものが天から墜ちる夢を見、その一つの鈴が懐に落ちて心が動悸し、まもなく身籠って任昉を生んだ。
- 身の丈七尺五寸、幼くして学を好み早くから名を知られた。宋の丹陽尹劉秉に主簿として招かれ、当時十六歳、気概をもって劉秉の子と衝突した。のち奉朝請となり、兗州秀才に挙げられて太常博士に拝され、征北行参軍に遷った。永明初、衛将軍王倹が丹陽尹を兼ねた際、再び主簿に招かれ、王倹は深くこれを敬重し「当代に並ぶ者なし」と評した。司徒刑獄参軍事、尚書殿中郎、司徒竟陵王記室参軍を歴任、父の喪により去職した。至孝の性で喪に礼を尽くし、服喪明けに続いて母の喪に遭い、常に墓のそばに廬して哭泣し、その地には草も生えなかったという。服喪を終えて太子歩兵校尉、東宮の書記を管掌した。
斉末の代筆と不遇
- 斉の明帝が鬱陵王を廃した当初、侍中・中書監・驃騎大将軍・開府儀同三司・揚州刺史・録尚書事となり兵五千を加えられた際、その表(辞退の上表文)を任昉に起草させた。文中では、自らが先帝の厚恩を受けながら托孤の重責を果たせず宗廟に対して恥じ入るとし、驃騎大将軍・録尚書事といった高位高官を固辞したいという趣旨を述べた。
- 明帝はその文言を不快に思い、任昉は建武年間を通じて官位が上がらなかった。任昉は文章に優れ、とりわけ実務文書に長け、当時の公卿の表奏はすべて任昉に依頼し、起草すればそのまま完成して添削を要さず、一代の文宗と称された沈約も深くこれを推した。
梁への出仕と最期
- 明帝が崩じ(498年)中書侍郎に遷り、永元末(501年)司徒右長史となった。高祖が京邑を平定し霸府を開くと、任昉は驃騎記室参軍となった。かつて高祖と任昉が竟陵王の西邸で親しく交わった際、高祖が「私が三府に登れば君を記室にしよう」と言い、任昉も戯れて「私が三事(三公)に登れば君を騎兵にしよう」(高祖が騎馬に巧みだったことを指す)と応じており、この時になって高祖はかつての言葉どおり任昉を引き立てた。
- 任昉は感謝の牋を奉り、長年の恩顧への謝意と自らの微力を尽くす覚悟を述べた。梁台建立に際しての禅譲の文誥の多くは任昉が起草した。高祖の践阼後、黄門侍郎、吏部郎中(著作を掌る)を経て、天監二年(503年)義興太守として出向、清廉であったため妻子ですら麦を食するのみであった。友人の到溉・到洽兄弟と山沢に遊んだが、後任に代わられた際、船には米五斛のみで、帰京しても衣がなく、鎮軍将軍沈約が裙衫を贈って迎えたという。
- 再び吏部郎中となり大選(選官)を掌ったが職に相応しからずと評され、御史中丞・秘書監・領前軍将軍に転じた。斉の永元以来乱れていた秘閣四部の書目を自ら校訂し、篇目を定めた。天監六年(507年)春、寧朔将軍・新安太守として出向し、飾らず杖を突いて徒歩で郡内を巡り、訴訟人があればその場で裁決するなど清廉な政をなし、吏民に便益をもたらした。着任一年で官舎に卒去、享年四十九。郡境の民は皆これを惜しみ、城南に祠堂を立てた。高祖はこれを聞いて哀悼し、太常卿を追贈、諡は敬子といった。
交友と蔵書
- 任昉は交友を好み士人を奨励し、その推挙を得た者の多くが登用されたため、貴顕の士人はこぞって交わりを求め、賓客は常に数十人に及び、時人はこれを「任君」と呼び、漢代の三君(士人の模範とされた人物たち)になぞらえた。陳郡の殷芸は建安太守到溉への書簡で「哲人が亡くなり、その儀表もはるか彼方へ去った、亀鑑を誰に託せばよいのか」と嘆いており、士友からの信望のほどが知れる。
- 任昉は資産を治めず、住居すら持たなかった。世には多く借財すると譏る者もあったが、得た財はまた親故に施した。任昉は常々「自分を理解するのも理解しないのもみな同じ理由による」と嘆いていたという。蔵書は万余巻に及び異本が多かった。任昉の没後、高祖は学士賀縦と沈約に命じてその書目を勘案させ、官に無いものは任昉の家から取らせた。著した文章は数十万言に及び世に広く行われた。任昉は士大夫の間で多くの人材を引き立てたが、没した時には諸子はみな幼く、顧みる者は少なかった。
劉孝標『広絶交論』
- 平原の劉孝標(劉峻)は任昉の没後の不遇を見て、客と主人の問答形式の論を著した。朱穆の『絶交論』の是非を問う客に対し、主人は「利によって結ぶ交わり(利交)」を五種に分けて論じる。権勢に阿る「勢交」、財貨によって結ぶ「賄交」、弁舌によって結ぶ「談交」、困窮ゆえに結ぶ「窮交」、利害を計算し尽くす「量交」であり、いずれも利がある間は群がり利が尽きれば散る俗世の交わりだと批判した。こうした利交は三つの弊害(禽獣同然の薄情、争訟の温床、名節を傷つける貪婪)を生むとし、近世に楽安の任昉という海内の英傑があり、文才に優れ多くの士人を愛し引き立てたため、生前は賓客が門にあふれたが、没して東越から遺骸が帰った後は、幼い遺児を顧みる者もなかったと嘆じ、世の交わりの険しさをこう評した。
- 任昉は雑伝二百四十七巻、地記二百五十二巻、文章三十三巻を撰した。任昉の第四子東里は父の風があり、官は尚書外兵郎に至った。
史論
- 陳の吏部尚書姚察は言う。前漢・後漢は経術に通じた者を先んじて求賢したが、近世は文史によって人を取ることが多い。江淹・任昉の二人の作は辞藻壮麗であり、まさにその時勢に値した。江淹は物静かに、任昉は内なる徳行をもって、ともに名声と地位を全うした、まことにもっともなことである。江淹が高帝の知遇を得ず、任昉が旧恩を受けなかったならば、その高い官位や没後の顕彰も得られなかったであろう。