梁書卷十四 列傳第八 江淹

出自と獄中上書

  • 江淹、字は文通、濟陽考城の人。幼くして父を失い貧しかったが学を好み、物静かで交遊は少なかった。
  • 南徐州従事として出仕し、奉朝請に転じた。宋の建平王劉景素は士人を好み、江淹はこれに従って南兗州にあった。広陵令の郭彦文が罪を得た際、江淹も連座して州の獄に繋がれた。
  • 獄中で上書し、古人の忠而見疑の故事(燕の霜、斉の風の故事等)を引いて自らの無実を訴え、景素の憐察を乞うた。景素はこれを読んで即日釈放し、南徐州秀才に推挙、対策で上第となり、巴陵王国左常侍に転じた。

景素への諫言と左遷

  • 景素が荊州へ赴くと江淹もこれに従い任地へ入った。少帝(劉宋)が即位して失徳が多く、景素が上流に拠って挙兵を勧められると、江淹はたびたび諫めて「流言が禍を招いた二叔の例、疑心暗鬼で滅んだ七国の例」を引き、宗廟の安を求めず左右の計を信じれば必ず滅びると説いたが、景素は聞き入れなかった。
  • 景素が京口に鎮すると、江淹も鎮軍参軍事・南東海郡丞となった。景素が腹心と日夜謀議するのを見て禍の兆しを察し、詩十五首を贈って諷諫した。南東海太守陸澄が丁艱すると、江淹は郡丞として郡事を代行すべきと考えたが、景素は司馬柳世隆を用いたため、江淹が固く争ったところ景素は激怒し、選部に讒言して建安呉興令に左遷した。江淹はその県に三年在任した。

斉初の栄達と沈攸之の乱

  • 昇明初(477年頃)、斉の高帝が輔政し、その才を聞いて尚書駕部郎・驃騎参軍事に召した。まもなく荊州刺史沈攸之が反乱を起こすと、高帝が江淹に見通しを問うた。江淹は項羽と劉邦、袁紹と曹操の強弱の逆転を引き、徳の有無こそが勝敗を決すると答え、高帝の五つの勝算(武勇・寛容・人材・民望・大義名分)と沈攸之側の五つの敗因(志大才疎・威あって恩なし・士卒不和・士人心離れ・遠征の困難)を説いた。高帝は「君の弁は過ぎたるも面白し」と笑った。
  • このころ軍書・表記はすべて江淹が起草した。相国府が建つと記室参軍事に補され、建元初(479年頃)には驃騎建安王記室・東武令を兼ね、詔冊の起草と国史編纂を掌った。ほどなく中書侍郎に遷り、永明初(483年頃)驃騎将軍となって国史を掌った。

中丞としての粛正

  • 建武将軍・廬陵内史として出向し三年在任、還って驍騎将軍・兼尚書左丞、さらに国子博士を兼ねた。少帝初、本官のまま御史中丞を兼ねた際、明帝(当時輔政)が「南司として百寮を粛正せよ」と命じ、江淹は「才薄く聖旨に応えられぬのを恐れる」と答えた。
  • 中書令謝朏・司徒左長史王繢・護軍長史庾弘遠を、久しく病と称して山陵の公事に加わらなかった罪で弾劾し、前益州刺史劉悛・梁州刺史陰智伯を贓貨巨万として廷尉に付して治罪、臨海太守沈昭略・永嘉太守庾曇隆ら諸郡の二千石・大県の官長も多く弾劾したため、内外は粛然とした。明帝は「宋代以来これほど厳明な中丞はいなかった、君は近世随一だ」と称えた。

斉末から梁への出仕

  • 明帝即位後、車騎臨海王長史、廷尉卿(給事中を加える)、冠軍長史(輔国将軍を加える)、宣城太守(将軍号如故)を四年務め、還って黄門侍郎・歩兵校尉、次いで秘書監となった。
  • 永元中、崔慧景が挙兵して京城を囲んだ際、衣冠の士は皆その陣営に名刺を投じたが、江淹は病と称して赴かず、事が平定されると人々はその先見の明に服した。東昏侯の末年、秘書監のまま衛尉を兼ねよと命じられ、固辞したが許されず就任、人に「これは自分の任ではない、天の運と人の事はまもなく覆るだろう」と語った。
  • 副領軍王瑩に付き従っていたが、義師(蕭衍軍)が新林に至ると微服して来奔した。高祖(蕭衍)は冠軍将軍・秘書監に任じ、ほどなく司徒左長史を兼ねさせた。中興元年(501年)吏部尚書、二年(502年)相国右長史(冠軍将軍如故)に転じた。

梁朝での爵封と晩年

  • 天監元年(502年)、散騎常侍・左衛将軍となり、臨沮県開国伯に封ぜられ食邑四百戸を得た。江淹は子弟に「自分はもとより仕官によって富貴を求めたのではない、いま忝くもここまで至った、平生の望みは既に満たされた、人生は行楽あるのみ、功名が立った以上は草莽に帰りたい」と語った。
  • その年、病により金紫光禄大夫に遷り、醴陵侯に改封された。天監四年(505年)に卒去、享年六十二。高祖は素服して哀を挙げ、銭三万・布五十匹を賻贈し、諡は憲伯といった。
  • 江淹は若くして文章で名を馳せたが、晩年は才思がやや衰え、当時の人は「江郎才尽」と評した。著述は百余篇に及び、自ら前後集を撰し、斉史の十志も併せて世に行われた。子の蔿は爵を襲ぎ、丹陽尹丞から長城令となったが罪を得て削爵された。普通四年(523年)、高祖は江淹の功を追念し、蔿を呉昌伯に再封し、食邑は以前と同じくした。