出自と孤貧の若年
- 字は休文、呉興武康の人。祖父の沈林子は宋の征虜将軍。父の璞は淮南太守であったが元嘉末に誅殺され、約は幼くして身を潜め赦免を得たものの、その後は貧しく流寓した。学問に篤く昼夜怠らなかったため、母は身体を案じ油を減らし灯を消させたが、約は昼に読んだ書を夜に暗誦するほどで、群書に博通し文章をよくするに至った。
- 奉朝請として起家、済陽の蔡興宗に才を認められ、興宗が郢州刺史になると安西外兵参軍・兼記室として引き立てられた。興宗は諸子に「沈記室は人倫の師表、よく仕えよ」と語ったという。荊州に転じた興宗に従い征西記室参軍・帯関西令、興宗の死後は晋安王の法曹参軍・外兵参軍を兼ね記室を兼ねた。のち尚書度支郎に入った。
斉での文名と高祖への接近
- 斉初め征虜記室・帯襄陽令として仕えた王は文恵太子であった。太子が東宮に入り歩兵校尉・管書記となり永寿省で四部の図書を校訂した折、東宮には多くの学士がいたが約は特に親遇され、当直するたびに夕刻まで召され、他の王侯が参内できぬ時でも約だけは常に許された。太子は「私は元来朝寝坊だが、卿と語らうと寝食を忘れる、早朝から参内してくれ」と述べたという。
- 太子家令に遷り、著作郎を兼ね、中書郎・本邑中正・司徒右長史・黄門侍郎を歴任した。竟陵王も学士を招いており、約は蕭琛・王融・謝朓・范雲・任昉らと共に交遊し、当世は人材を得たと称えた。尚書左丞を兼ね、御史中丞、車騎長史に転じ、隆昌元年に吏部郎に除せられ、寧朔将軍・東陽太守として出た。明帝即位後は輔国将軍を進号され五兵尚書に徴され、国子祭酒に遷った。明帝が崩じ政が冢宰に帰した折、尚書令徐孝嗣は約に遺詔を撰定させ、左衛将軍に遷り通直散騎常侍を加えられた。永元2年、母の老いを理由に解職を願い、冠軍将軍・司徒左長史・征虜将軍・南清河太守に改められた。
禅代への進言
- 高祖が西邸にあった頃からの旧友で、建康城平定後は驃騎司馬・将軍如故として引き立てられた。高祖の勲業が成り天下の人望が集まる中、約はそれとなく話を向けたが高祖は黙って応じなかった。後日改めて「今は昔と異なり、素朴な徳望だけでは万民の心を得られません。士大夫が功名を求めるのは福禄を保つためで、今や童子・牧童すら斉の命運が尽きたことを知り、明公こそその人だと言っています。天文・人事はいずれも革命の兆を示し、永元以来ことに顕著です。讖に『行中水作天子』とあるのもまさにこれ、天の心は違えられず人情も逆らえません、歴数の帰する所である以上、謙譲を続けてもいずれ避けられないのです」と諫言した。高祖が「思案しよう」と応じると、約は「公が楚沔で兵を挙げた当初なら思案の余地もありましたが、王業が既に成った今、何を思案するのですか。かつて武王が紂を討った際、民は入城するや『我が君、武王』と称え民意に逆らわず思案の必要もありませんでした。公が京邑に至ってから既に時は移っています、周の武王よりも遅いくらいです。もし早く大業を定めねば天人の望みを裏切ることになり、もし一人でも異心を抱く者が現れれば威徳を損ないます。人は金玉ではなく時勢は保証できません、建安の封(漢の献帝の待遇)を子孫に残してよいのですか。もし天子が都に戻り公卿がそれぞれの位に安んじれば君臣の分は定まり異心も生じません、君が上に明らかで臣が下に忠であれば、誰が公を賊よばわりできましょう」と説き、高祖はこれに同意した。
- 約が退出すると、高祖は范雲を呼んで同じ話をさせたところ雲の意見も約とほぼ同じであった。高祖は「智者は期せずして一致するものだ、明朝また休文(約)を連れて参れ」と述べた。雲が退出して約にこれを伝え「私が来るまで待て」と約したが、約は約束より先に参内した。高祖が禅譲の詔を起草させると、約は懐に用意していた詔書と人事案を取り出し、高祖はほとんど手を加えなかった。間もなく雲が外から駆けつけたが殿門で足止めされ、寿光閣の外を行きつ戻りつしながら「しまった」とだけ呟いた。約が出て「どう処されたのか」と問うと、約が左手を挙げて示すと雲は笑って「望んだ通りだ」と応じた。高祖はのちに雲を召し「休文と付き合ってきて非凡さに気づかなかったが、今日の才知は明識というべきだ」と述べ、雲が「公が今、約の異心なきを知ったように、約も今、公を知ったのです」と答えると、高祖は「私が挙兵して3年、功臣諸将にはそれぞれ功労があるが、帝業を成したのは卿ら二人だ」と述べた。
高祖朝での栄達と晩年の不遇
- 梁台建立後、散騎常侍・吏部尚書・兼右僕射となり、高祖受禅後は尚書僕射、建昌県侯(食邑千戸)に封じられ常侍如故。母の謝氏も建昌国太夫人を拝命し、その日は范雲ら二十余人が祝賀に参じ朝野の栄誉とされた。のち尚書左僕射・常侍如故に遷り、兼領軍・侍中を加えられた。天監2年、母の喪に服す際、高祖自ら弔問に赴き、約の衰えを案じて中書舎人に来客を断らせ哭泣を控えさせた。喪中も鎮軍将軍・丹陽尹に起用され佐史を置かれた。服喪明け後は侍中・右光禄大夫・領太子詹事・揚州大中正となり尚書の八条事を統括、尚書令・侍中・詹事・中正如故に遷ったが度々辞退を上表し、尚書左僕射・領中書令・前将軍・置佐史・侍中如故に改められ、尋いで尚書令・領太子少傅に遷った。天監9年、左光禄大夫・侍中・少傅如故となり鼓吹一部を給された。
- 約は長く要職にあり三公を望んでいたが、周囲はふさわしいと見ても高祖は用いなかった。外任を求めても許されず、徐勉に親しく書を送って自らの境遇(幼くして孤苦であったこと、宦途の苦節、晩年の病)を訴え致仕を願ったが、勉が高祖に伝えても三司の待遇は許されず鼓吹を加えられたのみであった。
- 約は酒を嗜まず欲も少なく、栄達しても質素に暮らし、東田に自邸を構え郊外の丘を望んだ。その地で著した「郊居賦」は、至人が己を忘れ物我の別を離れる境地から説き起こし、一族が江南に南遷した由来、故郷への思い、隠棲の営みと草庵・池水・草木・鳥獣魚介の情景、古人の事跡への感懐、仏道への帰依の思いなどを長大な韻文で綴ったもので、末尾は禄仕の恩に報い得ぬまま老いていく我が身への嘆きで結ばれる。
- のち特進・光禄・侍中・少傅如故を加えられ、天監12年、73歳で官にあって卒した。詔して本官を追贈、賻銭五万・布百疋を賜い諡は隠とした。約は左目に重瞳があり腰に紫の痣があったといい、聡明で書物を好み蔵書2万巻は京師に並ぶ者がなかった。若い頃は貧しく宗族に米を乞い、数百斛得た際に宗人に馬鹿にされ米をこぼされたこともあったが、栄達後もそれを恨まなかった。ある宴で斉の文恵太子の宮人であった妓女が「座中で見知った人は」と問われ「沈家令(沈約)だけです」と答えて涙したため、約も悲しみ帝は酒宴を中断させたという。
- 約は三代(斉・梁の各朝)に仕え旧章に通じ博識で、当世の模範とされた。謝朓は詩に、任昉は文章に長けたが、約は両方を兼ねながらそれでも彼らを超えるには至らなかったと自ら評したという。高才を自負しつつ栄利には疎く、勢いに乗ってやや清談に累われる面もあった。要職にありながら控えめな姿勢を保ち、官が進むたびに辞退を願い出ながら結局は離れられず、識者はこれを晋の山濤になぞらえた。十余年権勢の座にありながら人材を薦めることは少なく、政の得失についても曖昧な返答に終始した。
- かつて高祖が張稷に含む所があり、稷の死後に約がその話を持ち出され「尚書左僕射から地方刺史に出されたことは、もう終わったことです」と答えたところ、高祖は姻戚(張稷は高祖の女婿の父)をかばうものと激怒し「そういう物言いが忠臣か」と輦で内殿に戻った。約は驚きのあまり気づかず高祖が立ち上がった後もその場に座り続け、帰邸する際に牀にたどり着けず戸口で気を失うほどであった。以来病んで斉の和帝が夢に現れ剣で自分の舌を断つ夢を見、巫にこれを占わせるとその通りと出たため、道士に禅代(禅譲)の事が自分の意志ではなかったと天に奏上させた。高祖は医官徐奘を遣わし診させ、その様子を報告させた。
- 以前、宴で豫州から献上された1寸半の栗が話題になった折、帝がその由来をどれだけ知るか約と競わせたが、約は帝より3事少なく答え、退出後「陛下は勝ちを譲らぬ、勝てば恥じ入るところだった」と人に語った。帝はこれを不遜と受け止め罪に問おうとしたが徐勉の諫言でやめさせた。しかし赤章(禅譲の事情を釈明する道士の上奏)の一件を聞くと激怒し、使者による譴責が度重なり、約は恐れのあまり卒した。有司は文の諡を奏したが、帝は「懐情を尽くさぬを隠という」として諡を隠に改めさせたという。
- 著書に『晋書』110巻、『宋書』100巻、『斉紀』20巻、『高祖紀』14巻、『邇言』10巻、『諡例』10巻、『宋文章志』30巻、文集100巻があり、いずれも世に行われた。また『四声譜』を撰し、古来の詩人が千年気づかなかった声調の妙旨を自分だけが会得したと自負したが、高祖はこれを好まなかった。帝が周捨に「四声とは何か」と問うと捨は「天子聖哲がそれです」と答えたが、帝はついにこれを用いなかった。
- 子の旋は、約の在世中すでに中書侍郎・永嘉太守・司徒従事中郎・司徒右長史に至っていたが、約の喪に服して太子僕となり、さらに母の喪により去官して菜食し、服喪後も米食を絶ち、給事黄門侍郎・中撫軍長史を経て招遠将軍・南康内史として出た。任地では清廉な統治で知られ官にて卒し諡は恭。子の寔が跡を継いだ。
史論
- 陳の吏部尚書姚察は評していう。かつて木徳(斉)が衰え昏虐な嗣主が横暴を極め、民の命は目前に迫っていた。高祖が義兵を挙げてこの崩壊を救い天下を安んじたことは、その謀は帷幄の内に張良・陳平(良平)を頼んだに等しい。范雲と沈約は禅代の締構に参与し帝業を成す一助となった。雲は機知と明敏さで政務に益し、約は高才博学、班固・董仲舒に亜ぐと称された。二人とも興隆の運に恵まれた一代の英傑であった、と。