出自と若年の才気
- 字は彦龍、南郷舞陰の人。晋の平北将軍范汪の6世孫。8歳のとき宋の豫州刺史殷琰に出会い、琰はその非凡さに驚いて席に招いた。雲の応対は堂々として物怖じせず、琰が詩を作らせるとたちまち作り上げ、居合わせた者は皆感嘆した。親戚の袁照に就いて書を学んだ折には一晩中怠らず、照は「精神秀朗にして学に勤しむ、卿相の才だ」と評した。機知に富み、文章にも優れ、手紙も下書きなしにすらすらと書き上げるため、人々はあらかじめ用意していたのではと疑うほどであった。
- 父の范抗は郢府参軍で、雲も府にあった折、同僚であった呉興の沈約・新野の庾杲之と親交を結んだ。郢州西曹書佐として起家し法曹行参軍に転じた。沈攸之が挙兵し郢城を包囲した際、抗は府の長流として籠城したが、雲は城外の家族のもとにいて敵兵に捕らえられた。攸之が声を荒げて詰問しても雲は動じず弁明し、攸之は「見どころのある奴だ」と笑って解放した。翌朝再び書を城内へ届けさせられたが、城内では雲を殺そうとする動きもあった。雲は「老母と弱い弟の命は沈氏(攸之)に握られている、命に背けば親に禍が及ぶ、今死んでも本望だ」と述べ、長史柳世隆が雲と親しかったため助命した。
斉での栄達
- 斉建元初、竟陵王蕭子良が会稽太守となり雲も従ったが、当初は重用されなかった。秦望山に遊んだ際、誰も読めない刻石文を雲だけが誦じ、子良はこれに感心し以後厚遇した。子良が丹陽尹になると主簿として深く信任された。斉高帝に謁見した折、白い烏を献上する者があり帝がその瑞祥の意味を問うと、位の低い雲が最後に「王者が宗廟を敬えば白烏が至ると聞きます、ちょうど廟に謁したばかりです」と答え、帝は「感応の理はここまで及ぶものか」と感心した。
- 征北南郡王刑獄参軍事・領主簿を経て尚書殿中郎に遷り、子良が司徒になると記室参軍事、通直散騎侍郎・領本州大中正を経て零陵内史として出た。任地では自ら清廉を保ち煩雑な政務を省いて民の遊興の費えを減らし百姓を安んじた。明帝の召還後、散騎侍郎を拝し、再び始興内史として出た。郡には豪族が多く、二千石(郡太守)で気に入らぬ者は殺すか追い出すという物騒な土地柄で、前任者は皆武装して自衛していたが、雲は徳をもって民を治め、警戒の哨所を廃し商人が路上で野宿できるほどに治め、神明と称えられた。のち仮節建武将軍・平越中郎将・広州刺史に転じた。
- 尚書僕射江祏と親しく、祏の姨弟徐藝が曲江令になった際その後見を託されていたが、藝が県の豪族譚儼を鞭打ったため儼が京師に訴え出て雲も連座して投獄されたが、大赦で免れた。永元2年、国子博士として起用された。
高祖への合流と諫言
- 雲は竟陵王子良の邸で高祖と出会い、また近隣に住んでいた縁もあって高祖はこれを重んじていた。義兵が京師に至った時、雲は城内におり、東昏侯誅殺後、侍中張稷が雲を使者として城外に出させた。高祖はそのまま雲を留めて参謀とし、黄門侍郎を拝させ、沈約と心を合わせて高祖を輔けた。まもなく大司馬諮議参軍・領録事に遷り、梁台建立後は侍中となった。
- 高祖が斉の東昏侯の余妃を後宮に納れ政務に支障をきたしていた時、雲はこれを諫めたが聞き入れられなかった。のち王茂と共に高祖の寝所に赴いた際、雲は改めて「昔、漢の高祖は山東にいた頃は財と色を好んだが、関中に入り秦を平定すると財帛にも婦女にも手をつけなかった、范増はこれを天下を志す証と評した。今、明公は天下を平定したばかり、天下はその評判に注目している、それなのに昏乱の東昏の跡を踏んで女色に累われてよいのか」と諫言した。王茂も立ち上がって「范雲の言は正しい、公は天下を思うべきで女に執着すべきではない」と拝したため、高祖は黙して答えず、翌日には余妃を王茂に下賜し、雲・茂それぞれに銭百万を賜った。
- 天監元年、高祖の受禅の儀(南郊での柴燎の礼)に雲は侍中として陪乗した。儀式後、高祖が輦に上り「朕は今日、朽ちた縄で六頭立ての馬車を御するような心地だ」と述べると、雲は「陛下には日々慎まれることを願います」と答え、高祖はこれを称えた。この日、散騎常侍・吏部尚書に遷り、佐命の功により霄城県侯(食邑千戸)に封じられた。旧恩により重用され誠を尽くして輔佐し、高祖も心を許して任せたので、その上奏はほぼすべて聞き入れられた。
佐命の重臣としての栄誉と最期
- ある宴席で高祖は臨川王宏・鄱陽王恢に「私と范尚書は若い頃から親しかった、天下の主となった今もその礼は変わらぬ、お前たちも私に代わって範を兄と呼べ」と述べ、二王は席を降りて拝し雲と車を並べて尚書省まで送った。時人はこれを栄誉とした。その年、東宮が建てられると雲は本官のまま太子中庶子を領し、尋いで尚書右僕射に遷り吏部も引き続き領した。のち詔に反する人事を行った罪で吏部を免じられたが僕射のままとされた。
- 雲は篤実な性格で寡嫂によく仕え、家事は必ず相談してから行い、義理堅く人の急を助けることを好んだ。若い頃親しかった領軍長史王畡が官舎で没し貧しく住まいもなかった際、雲は喪を自邸に迎え自ら葬儀を執り行った。竟陵王子良に厚遇された折も損益(諫言)をためらわなかった。子良がかつて斉武帝に雲の郡統治について奏上した際、帝は「凡庸な者ゆえ、いちいち罰さず遠方へ左遷するのがよかろう」と言ったが、子良は「そうではありません、雲はしばしば私を戒める諫書を残しています」と述べその文書百余枚を差し出し、帝はその辞の切実さに感嘆し「雲がこれほどとは、お前を輔ける役に任じよう、外に出す必要はない」と述べた。
- 斉の文恵太子が東田で収穫を見物し「これを刈るのも見応えがある」と語った際、他の賓客は同調するばかりだったが雲だけは「農事の労苦は長く、殿下には稼穡の困難をお察しいただき一朝の宴楽に耽られませぬよう」と諫めた。退出の際、それまで面識のなかった侍中蕭𬗟が車に寄り雲の手を取り「今日また正論を聞けるとは思わなかった」と語ったという。
- 人事の要職にあって書牘は机に山積し賓客は門にあふれたが、雲は淀みなく応対し文書処理も的確で人々はその明敏さに感服した。一方で気性が激しく威厳に乏しく、是非をとっさに口にする癖があり、これを軽んじる者もあった。かつて郡にあった頃は清廉を謳われたが、栄達後はやや贈答を受けるようになった。ただし家に蓄財はなく親友に分け与えていた。天監2年、53歳で卒した。高祖は涙を流し即日輿駕で弔問、詔して侍中・衛将軍・僕射侯如故を追贈、鼓吹一部を給い、礼官は諡を宣と請い勅により文の諡を賜った。文集30巻がある。子の孝才が跡を継ぎ、官は太子中舎人に至った。