出自と功績
- 字は司大、新野の人。長沙宣武王が梁州刺史であった際、録事参軍・華陽太守として仕えた。魏軍が南鄭を包囲した折、城中に数十の空倉があったが、域は「この中には2年分の食糧がある」と将士に示して士気を保ち、魏軍を退けた。功により羽林監、南中郎記室参軍に遷った。
- 永元末、高祖が挙兵すると書を送って域を招いた。西台建立後、寧朔将軍・領行選に任じられ、高祖に従い東下、陽口に至った際、和帝が遣わした御史中丞宗夬をそれとなく説き「黄鉞(総督の印)がなくては諸侯を統率できない」と示唆させ、西台から高祖に黄鉞が授けられた。蕭頴冑が中外諸軍事を都督した際、高祖もそれに倣うべきとの議論があったが、域はこれに異を唱えて実現させなかった。
- 郢城平定後、域は張弘策と共に東進を主張し高祖の意と合致、全軍がただちに東下した。しばしば献策が採用され、覇府開設後は諮議参軍。天監初め広牧県子に封じられ、後軍司馬、寧朔将軍・巴西梓潼二郡太守・梁州長史を歴任。梁州長史夏侯道遷が州を挙げて魏に降ると、魏の騎兵が巴西を襲ったが、域は百日以上籠城し、城中は糧が尽きて草や土を食む者まで出て死者は半数に及んだが、離反する者はなかった。魏軍が退くと詔により200戸を加増され、爵は伯に進んだ。天監6年(507年)、郡で卒した。