梁書卷八 列傳第二 愍懷太子

経歴と最期

  • 愍懐太子方矩、字は徳規、世祖(元帝)の第四子。初め南安県侯に封ぜられ、世祖に従い荊鎮にあった。太清初、使持節督湘郢桂寧成合羅七州諸軍事・鎮南将軍・湘州刺史となり、まもなく侍中・中衛将軍に徴され鼓吹一部を給された。世祖の承制により王太子を拝し名を元良と改めた。承聖元年(552年)11月丙子、皇太子に立てられた。西魏軍が荊城を陥した際、太子は世祖とともに魏人に殺害された。太子は聡頴で世祖の風があったが凶暴猜忌でもあった。敬帝の承制により愍懐太子と追謚された。

史論

  • 陳の史部尚書姚察曰く、孟軻の「鶏鳴きて起き孳孳として善を為す者は舜の徒なり」との言を引き、布衣韋帯の士でも畎畝の中で日々善を行えばその利益は大きい、まして重明の位・正体の尊にありながら念を克め怠らず、烝烝として孝である者(昭明太子を指す)の徳は舜と遠くない、と評した。