出自と経歴
- 諱は徽、高平金郷の人。祖父郗紹は国子祭酒・領東海王師。父郗燁は太子舎人で早卒。
- 母尋陽公主が懐妊中に貴子を生む夢を見、生まれた際には赤光が室を照らし器物が明るく輝いたため、巫は「将来禍を招く」と占い水辺で祓除させた。幼くして明慧、隷書・史伝・女工に通じた。宋の後廃帝が后に納れようとし、斉初は安陸王緬も婚を望んだが、共に女の病を理由に辞退された。
- 建元末、高祖(蕭衍)がこれを娶り、永興公主玉姚、永世公主玉婉、永康公主玉嬛を生んだ。建武5年(498年)、高祖が雍州刺史となり先に赴任し、後に后を迎えたが、永元元年(499年)8月、襄陽の官舎で薨じた。時に年32。その年、南徐州南東海武進県東城里山に帰葬された。
- 中興2年(502年)、斉朝が高祖を相国に進め十郡梁公に封じた際、后を梁公妃に追贈。高祖践阼後、皇后に追崇。吏部尚書兼右僕射の臣・約(沈約)が諡を議し、「徳」の字を選んだ。陵は脩陵という。
- 父郗燁には金紫光禄大夫を追贈。燁は宋文帝の女尋陽公主を娶り、斉初に松滋県君に降封された。燁の子・郗泛は中軍臨川王記室参軍。