遼史卷一百十四 列傳第四十四 蕭特烈

離散の中での擁立と最期

蕭特烈、字は額圖琿。約尼温汗の宮分人。乾統中、宿衛に入り、順義軍節度使に出された。天慶四年、咸州路兵馬事を同知し、五年、戦の敗れにより節度使を奪われた。保大元年、威部節度使に遷った。天祚が山西で群牧兵を集めた際、特烈は副統軍となり、金軍が至ると聞き士卒に君臣の義をもって死戦を諭し石輦駅で戦った。金兵は戦わず、特烈は機を伺って攻撃しようとしたが、天祚は喜んで嬪御や諸子を高台に登らせ観戦させたところ、金兵は日月の旗を見て天祚がその下にいると知り、精鋭で直進して攻めたてたため誰も敵し得ず、天祚は逃走した。特烈は各地で敗残兵を招集し、中軍都統となったが再び梯已山で敗れた。天祚は河を渡って夏へ逃げようと決意し、従臣が切に諌めても聞き入れなかった。人心が動揺し途方に暮れる中、特烈は耶律烏哲に密かに「事態がこのようでは民心は離れる、我々が節を尽くす時だ、早く手を打たなければ社稷はどうなる」と語り、共に梁王雅里を拉致し西北の諸部へ逃れて僭して帝に立てた。特烈は自ら樞密使となった。雅里の死後、後継を選ぶことになり、耶律烏哲が「珠拉は才徳兼備、興宗の孫でもある」と述べると、皆「よい」として僭立させた。特烈は元の官職のままであったが、それから三十日足らずで珠拉とともに乱兵に殺された。

史論

遼が国家の要職を掌り、兵権を握り諸部帳を統制する任は、宗室と外戚以外には任せなかった。それは帝王が長久な世を築くための計であったはずである。それにもかかわらず、叛逆をほしいままにして混乱と滅亡を招いたのは、みなこれらの人物であった。国家を保つ者は深く戒めなければならない。