遼史卷一百十三 列傳第四十三 蕭格

寵遇と重元への加担

蕭格、小字は華格、字は和爾沁。国舅房林牙華善の子。機知に富み、太平初め官職を歴任し近習の間を巧みに立ち回り媚びへつらいで評判を得、次第に帝の耳に達した。重熙初め北面林牙に拝された。十二年、北院枢密副使となった。帝がかつて近臣との宴で「朕はそなたの才を知ればこそ抜擢した、努めよ」と言うと、格は「私は不才でありながら聖知を蒙った、報いる術はなくただ愚衷を尽くすのみ、どうして怠けられましょう」と答えた。翌年、北府宰相に拝され、十五年、同知北院枢密事に改められた。格は権勢を頼み同僚はいるだけの存在であった。当時、伊勒希巴耶律義先は格の姦佞を知り、侍宴の折に「格の短所を用いれば事を敗る」と述べたが帝は聞き入れなかった。ある日、帝は義先に格と巡って盃を回させたが、酔った義先が「私は大臣の位にありながら忠を進め佞を除くことができない、どうして賊と博打を打てようか」と言うと、格はこれを恨みつつも「公の戯れも度が過ぎましょう」と皮肉り、義先はさらに罵ったため帝は怒ったが皇后が「義先は酒に酔って乱れているだけ、酔いが覚めれば治まる」ととりなした。翌日、帝は格に「義先は無礼だ、痛めつけて縛ってよい」と命じたが、格は「義先の才は聖鑑を逃れることはない、しかし天下は彼が忠直であると知っている、酒の過ちを罪とすれば人望に背くことになろう」と答え、その情を偽って媚びる態度がこの類に多かった。南院枢密使に拝され、王を諸王の上に班し呉王に封じられ、知北院に改められ鄭王に進み中書令を兼ねた。帝の危篤に際し、格に「大位は一日も空にできぬ、朕が目覚めなければ燕趙国王に速やかに嗣位させよ」と詔した。清寧元年、再び南院枢密使となり楚王に改められ、さらに北院に転じ国舅蕭阿拉とともに朝政を掌った。格は私情を挟むことが多く、阿拉がその都度これを正したため両者に隙が生じ、阿拉を東京留守に出させた。南郊の際、阿拉が慣例により参内し帝が時務を尋ねると、阿拉は利害を激しく論じたが、格は帝の不興を察して「阿拉は寵を恃み上を軽んじる態度があり、臣たる礼を失している」と讒言し、帝は大いに怒って阿拉を殿下で絞殺させた。後に帝は格の姦計を知り寵遇は次第に衰えた。八年、致仕して鄭国王に封じられた。九年秋、格は子を重元の婿としており重元の謀に加わったとして凌遅刑に処された。